礒田湖龍斎(いそだ こりゅうさい)

浮世絵師

礒田湖龍斎は安永から天明期にかけて、北尾重政や勝川春章などと共に浮世絵界を支えた立役者の一人です。2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」ではお笑い芸人であり、イラストレーターでもある鉄拳が磯田湖龍斎役を演じています。

 ここでは磯田湖龍斎について説明します。

礒田湖龍斎とは

礒田湖龍斎は安永から天明にかけての時期に活躍した浮世絵師です。多くの作品が残されており、当時、売れっ子絵師だったことがわかります。

礒田湖龍斎の生い立ちと経歴

本姓は藤原、姓は礒田、名は正勝で俗称は庄兵衛と称しました。元々は茨城県土浦市を中心とする土浦藩の土屋家に仕える武士でしたが、浪人となっていました。土浦市は日本第二の大きさを誇る湖である霞ケ浦に面していますが、湖龍斎の湖龍はそれに由来していると言われています。

土浦藩の居城、土浦城

湖龍斎は両国橋広小路薬研堀(やげんぼり)に住んでいました。このことから、晩年には自ら「武江薬研堀隠士」とも称しています。

この両国は浅草と並ぶ盛り場として有名でした。広小路は火事に対する火除地(ひよけち)とされたため、常設の建物が建てられなかったことから、床見世や露天商で賑わう場所となりました。また相撲などの興行も行われていました。

薬研堀はその周辺地域として、料亭や菓子屋などが立ち並ぶ両国界隈の地でした。湖龍斎もこうした江戸の庶民文化が最も色濃く表れている場所に居住しつつ、創作活動を行っていたわけです。

初期の頃は鈴木春広と名乗ってましたが、鈴木春信の門人ではありませんでした。また、湖龍斎春広とも名乗っており、この頃から湖龍斎という名称を用いていました。西村重長の門人とも言われてますが、こちらも詳細は不明のようです。

湖龍斎の作品と特徴

初期の鈴木春信風の華奢な女性像に代わり肉感的な美人画を描いて好評を博した湖龍斎ですが、ほかにも様々なジャンルの絵が残されています。

初期の作品

礒田湖龍斎は明和年間(1764~1772年)の後期に浮世絵師として世に出ました。一世を風靡した浮世絵師、鈴木春信が活躍していた時期<(宝暦十年(1760年)から亡くなる明和七年(1770年)>と重なっていました。

デビューした湖龍斎もその影響を受けて、画風も華奢な姿の女性を描く春信風の絵を描いていました。

風流略源氏 横笛 

摂津国擣衣玉川:重要美術品

出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-323?locale=ja)

湖龍斎の柱絵

浮世絵には柱に張り付けることもできる、柱絵と呼ばれる細長い形式があります。湖龍斎は巧みな図柄の柱絵でもよく知られています。

柱絵:遠眼鏡持つ美人

出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-391?locale=ja)

湖龍斎の代表作

美人画に定評があった湖龍斎の代表作としては西村永寿堂から出された「雛形若菜の初模様」の大判シリーズが有名です。このシリーズはその後、鳥居清長に受け継がれていきます。

雛形若菜の初模様・旭丸屋内はやま、むめの、たけの

この図では武江薬研堀隠士湖龍画と名前を書いています。

出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-2239?locale=ja)

肉筆画

肉筆画も多く残されています。

美人愛猫図

出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-11475?locale=ja)

あぶな絵・枕絵(春画)

他の多くの浮世絵師と同様にあぶな絵や枕絵などの分野でも活動しています。

湖龍斎の評価

法橋に任命

天明二年(1782年)に絵師としては名誉な位である法橋(ほっきょう)に任じられました。法橋というのは元々、寺院の僧に対する位で、法印、法眼に次ぐ第三の位でした。それが絵師などにも準じて授けられるようになったものです。

天明年間に出版された本( 玄味子「北里歌」)の挿絵を担当した湖龍斎は「法橋湖龍斎」と名を入れてます。

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