江戸のメディア王と呼ばれる蔦屋重三郎と江戸の奇才として知られた平賀源内、この2人の間に接点はあったのでしょうか?以下、見ていきたいと思います。
因みに2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」では蔦屋重三郎を横浜流星が演じています。
また、平賀源内は安田顕が演じています。
蔦屋重三郎と平賀源内の接点
様々な発明や事業、執筆を行い、その奇才ぶりを発揮していた平賀源内は安永八年十二月(1780年1月)に52歳で獄死します。これは寛延三年一月(1750年2月)生まれの蔦屋重三郎が30歳になる直前だった時期です。つまり、まだまだ駆け出しの本屋だった頃ですね。
この頃の蔦重の動向を見ておきます。
蔦屋重三郎が吉原大門口間道の左側に書店を構えたのは安永二年(1773年)、23歳の頃でした。当時、鱗形屋の配下で吉原細見の卸しや小売りを行っていました。
その後、自ら出版も行っています。また、安永四年には版元として吉原細見を発行するようになります。これは鱗形屋がトラブルに巻き込まれたスキを突いたものです。こうして20代前半の間に徐々に頭角を現していくことになります。
安永三年(1774年) 細見嗚呼御江戸
さて、上述の吉原細見というのは、幕府公認の遊郭である吉原に関するガイドブックです。詳しくは「吉原細見と蔦屋重三郎」をお読みください。
蔦屋重三郎が安永二年に書店を起業した当時、吉原細見をほぼ独占的に出版していたのが鱗形屋孫兵衛です。蔦重はその配下でそれらの卸しや販売をしていました。前述のように、その二年後の安永四年に初めて版元として吉原細見を出版することになります。
つまり、安永三年(1774年)の時点では、まだ鱗形屋孫兵衛グループ傘下という感じで働いていたわけです。その安永三年に鱗形屋から出された吉原細見が「細見嗚呼御江戸」です。
実はこの「細見嗚呼御江戸」の序を書いたのが、福内鬼外です。この福内鬼外というのは平賀源内が浄瑠璃作品を発表するときに使っていた名前です。当時、源内は40代半ばで名声を得て円熟味を増していました。
細見嗚呼御江戸序 福内鬼外
『細見嗚呼御江戸』(国文学研究資料館所蔵)
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/200020645
この細見嗚呼御江戸の奥付におろし小売取次として、蔦屋重三郎の名が載っています。前年に鱗形屋から発行された細見では二冊とも木村屋善八の名が奥付に載っていますが、初摺版では蔦屋の名前はありません。
この細見嗚呼御江戸の出版に蔦屋重三郎が参画していたことから、序を書いた平賀源内と大いに接点があったと思われます。
若き日の蔦屋重三郎にどのような影響を与えたのか興味深いところです。
参考文献
鈴木俊幸「蔦屋重三郎出板書目年表稿(上)」
鈴木俊幸「蔦屋重三郎出板書目年表稿・補正」
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