蔦屋重三郎が活躍していた当時、有力な地本問屋として活躍していたのが鶴屋喜右衛門です。略して鶴喜とも呼ばれました。
2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」では風間俊介が鶴喜役を演じています。
ここでは鶴屋喜右衛門について解説します。
鶴屋喜右衛門とは
鶴屋喜右衛門というのは、他の有名書肆と同じく、一人の名前ではなく、何代にもわたって名前が受け継がれています。江戸の鶴屋喜右衛門に先行して京都に同名の書肆があり、その江戸支店という形で始まりました。
鶴屋喜右衛門の登場
京都の鶴屋喜右衛門
江戸時代初期の出版は京都で始まりました。最初は漢籍、仏書、古典文学などが対象でしたが、その後、第二世代の出版社は古浄瑠璃や仮名草子など娯楽作品を出版するようになりました。
17世紀の前半である寛永年間に創業した京都の鶴屋喜右衛門もこの娯楽作品を出しています。確認できる最も早い時期の出版物として寛永八年(1631年)の「せっきょうかるかや」があげられます。
初期の鶴屋は浄瑠璃作品を専門に手掛けていたようで、浄瑠璃屋喜右衛門、草紙屋喜右衛門、正本屋喜右衛門などと名乗っていました。
江戸の鶴屋喜右衛門
その後、江戸の町が発展するのに伴って、江戸で書店ができていきますが、初期の頃の多くの店は京都の支店というような形で店が出されていました。鶴屋喜右衛門もその一つで、江戸でも京都と同名の「鶴屋喜右衛門」と名乗っていました。
この江戸へ進出した鶴屋喜右衛門が京都の鶴屋喜右衛門の一族なのか、それとも、のれん分けした番頭なのかについてはよくわかっていないようです。
江戸へは万治年間に出店したとされますが、江戸の鶴屋が出したものとして確実なのは寛文十二年(1672年)の「武家百人一首」とされています。少なくともこの時期には江戸に進出していました。
場所は日本橋大伝馬町3丁目、その後、常盤橋御門ヨリ本町筋下ル8丁目通油町北側中程八右衛門店、茂兵衛店、元浜町善兵衛店、新大坂町および石町3丁目で営業していました。
鶴屋喜右衛門の活躍
鶴屋喜右衛門の本姓は小林で、遷鶴堂あるいは仙鶴堂と号していました。
鶴屋の店頭風景
江戸名所図会 7巻 [1] 松濤軒斎藤長秋 著, 長谷川雪旦 画 出版者 須原屋茂兵衛[ほか] 出版年月日 天保5-7 [1834-1836]
上記の天保年間に出された「江戸名所図会」に通油町の鶴屋喜右衛門の店頭風景が描かれています。たこが揚がっているので、正月の情景であることが分かります。左を向き左右の翼を頭上に丸く広げた鶴、いわゆる鶴丸紋は鶴屋の紋ですが、絵の中にも描かれています。
鶴屋喜右衛門の紋
江戸を代表する地本・錦絵問屋
江戸に進出した鶴屋喜右衛門は江戸を代表する地本・錦絵問屋の一つへと成長していき、江戸の人々の間にしっかりと根付いていきます。
それは「誹風柳多留」に掲載されている次のような川柳からもわかります。
母親ハ夜るの鶴屋へ迷ひ来る
子を思ふ夜るの鶴やへ草さうし
吉例に鶴屋から買ふ草双紙
一番最後の句は正月明けに草双紙が最も多く出版されるという事情があるからです。同じ状況から、次のような句もあります。
鶴に蔦こたつの上に二三冊
これは鶴屋と蔦屋の草双紙がコタツの上に置かれている正月の光景を詠んだものです。
鶴屋の全盛期
鶴屋の全盛期は寛政、淳和、文化、文政の頃、つまり18世紀の終わりころから、19世紀の前半にかけての時期だと言われています。
この頃、江戸後期を代表する戯作者である滝沢馬琴、山東京伝、十返舎一九、柳亭種彦などの本をたくさん出版しています。中でも柳亭種彦の「偽紫田舎源氏」は大ヒット作品となりました。
偐紫田舎源氏 の出版
鶴屋喜右衛門のエピソード
鶴屋喜右衛門のエピソードも伝わっていますが、それが何代目のことなのかわからないという難点があります。
曲亭馬琴の「近世物之本江戸作者部類」によれば、先代の喜右衛門近房の長子である、当代の鶴屋喜右衛門が文化十五年(1818年)に出した「絵本千本桜」(歌川豊国画)は実は馬琴の代作と書かれています。そして、この喜右衛門は非常に酒好きだったので、それが高じて天保四年(1833年)に享年46歳で卒中で亡くなりました。
葬儀に参列した馬琴は「しるやいかに苔の下なる冬ごもり ひがしの松に春を待たして」という句を詠んでいます。
参考文献
柏崎順子「鶴屋喜右衛門」
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