喜多川歌麿

喜多川歌麿

浮世絵師を代表する存在の一人でもある喜多川歌麿。特に美人画は国内、海外ともに高い評価を得ています。2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」では染谷将太が喜多川歌麿役を演じています。

ここでは、喜多川歌麿について解説していきます。

喜多川歌麿とは

喜多川歌麿の生い立ちと経歴

生まれた年、生まれた場所共に不明です。文化三年(1806年)九月に亡くなりました。この亡くなった年から逆算して宝暦三年(1753年)頃に生まれたとされています(諸説あり)。また、生まれた場所も江戸という説が有力ですが、他の場所を主張する説もあります。

姓は北川で、後に喜多川と名乗りました。名は信美で、幼名は市太郎、後に勇助や勇記とされています。

浮世絵師としての経歴

喜多川歌麿の師匠と北川豊章時代

歌麿は妖怪画で知られる町絵師の鳥山石燕に学びました。幼年の頃より、石燕と親しんでいたことがわかっています。石燕は狩野派に学んだ絵師とされています。

百鬼夜行拾遺  鳥山石燕画

初めて名前が出てくるのは明和七年(1770年)に出された絵入り俳書「ちよのはる」の挿絵1点です。もし、1753年生まれであれば、歌麿が17歳の頃の作品ということになります。

この「ちよのはる」は鳥山石燕とその一派や北尾重政などが挿絵を担当していて、歌麿は石要という名で描いてます。絵師として活動を始めた頃、どのような絵師に囲まれていたかわかります。

歌麿と名乗る前の初期の号は豊章(とよあき)で、これは師の鳥山石燕豊房から豊の一字をもらったと考えられます。北川豊章、烏山豊章、烏豊章などと署名しています。

豊章の頃の絵にはまだ我々がよく知っている典型的な歌麿らしさは見られません。この頃の絵には北尾重政や勝川春章など、当時の人気絵師の画風に影響を受けています。こうしたことから、北川豊章を歌麿の師などとする別人説もあります。

【黄表紙】芸者呼子鳥 松泉堂 作、 北川豊章 画

歌麿への改名

その後、天明年間の初めに歌麿(歌麻呂、哥麿)と改名し、独自の作風を確立していきます。歌麿という名での作品は天明三年(1783年)の「青楼仁和嘉女芸者部」「青楼尓和嘉鹿嶋踊 続」が最初だとされています。この頃は黄表紙や洒落本などの版本の挿絵を手掛けていました。

青樓仁和嘉女藝者部(せいろうにわかおんなげいしゃのぶ )・獅子 たま屋 おいと

出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-1803?locale=ja)

なお、歌麿について当時は“うたまる”と呼ばれていましたが、19世紀を過ぎたころから現在のように“うたまろ”という呼び方が定着したようです。

狂歌絵本と蔦屋重三郎

喜多川歌麿は活躍した時代とちょうど重なる天明期から寛政期にかけて江戸で狂歌が大ブームとなりました。歌麿も筆綾丸(ふでのあやまる)という狂名を名乗って狂歌を詠んでいました。

当時、狂歌師たちが集まって、それぞれ「○○連」と呼ばれるグループを作っていました。歌麿は蔦屋重三郎(狂名 蔦唐丸)とともに吉原連に属していました。

狂歌がブームとなる中、多くの版元が狂歌書の出版にビジネスチャンスを見出したと思われます。出版業界の風雲児であった蔦屋重三郎がそれを見逃すはずもなく、狂歌本の分野に進出します。

蔦重は狂歌に歌麿による彩色画を合わせた「画本虫撰(えほんむしえらみ)」「汐干(しおひ)のつと」「絵本百千鳥(えほんももちどり)」など豪華な狂歌絵本を出版します。この三部作は、虫、貝、鳥をそれぞれ写生風に描いていて、歌麿の狂歌絵本の代表作となっています。

蔦屋重三郎は歌麿を世に送り出し、美人画の大家となるうえで大きな役割を果たしました。まさに二人三脚ともいえる蜜月関係にありましたが、その後、疎遠になりました。ですが、晩年には和解したようです。

※詳細は蔦屋重三郎と喜多川歌麿を参照!

絵本百千鳥 赤松金鶏選 喜多川歌麿画

美人大首絵の登場

天明期の浮世絵界において美人画の筆頭と言えるのは歌麿より一歳年長だとされる鳥居清長でした。清長の美人画は八頭身の健康的なプロポーションが特長で、江戸のヴィーナスとも呼ばれています。

當世遊里美人合・たち花 鳥居清長

出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-1131?locale=ja)

歌麿はその影響を受けつつ、後塵を拝していましたが、寛政年間に入ると、胸から上の上半身を描く、大首絵と呼ばれる美人画を出し、美人画界をけん引する存在として躍り出ました。この寛政時代(1789-1801年)こそ歌麿が最も活躍した時代だと言えます。

歌麿全盛期の初期の代表作には「婦女人相十品」「婦人相学十躰」などがあります。これらは背景に雲母摺(きらずり)という技法が使われていて、当時、大変高価であった雲母の粉を用いています。蔦屋重三郎が歌麿作品に期待を寄せていたのが分かります。

婦女人相十品・ポッピンを吹く娘

出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-546?locale=ja

ポッピンを吹く娘の詳細はこちらを参照!

青楼の画家 歌麿

19世紀フランスのジャポニズムに寄与したことで知られる作家で美術評論家のエドモン・ド・ゴンクールは歌麿を青楼の画家と呼びました。青楼とは遊郭を指しています。

江戸で青楼と言えば、幕府公認の遊郭である吉原を指しました。前述のように狂歌師としては吉原連に属していた歌麿は浮世絵作品においても吉原関連の作品をたくさん残しています。

中でも代表作の一つでもある「青楼十二時 續(せいろうじゅうにとき つづき)」は青楼の画家としての面目躍如たる作品です。

これは吉原の一日を子の刻から亥の刻まで12枚で描いたもので、大首絵ではなく全身像で描かれた優美な作品となっています。

青樓十二時 續・卯ノ刻

出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-3529?locale=ja)

山姥(やまんば)と金太郎

歌麿の作品の中で目を引くものとして山姥と金太郎を描いた一連の作品群があります。山に住む怖い老女の妖怪、山姥ではなく、若い女性として描かれています。晩年に描いたようで、幕府から咎められないように女性を描くための画題として選んだという説もあります。

しかし、歌麿の生い立ちが不明であることから、一説では生母を知らない歌麿が母性への憧れから描いたものと考える人もいます。確かに、この山姥と金太郎以外にも母子を描いた作品が多く見られます。

山姥と金太郎・盃 ※重要美術品

出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-535?locale=ja)

あぶな絵 春画

美人画に関して当代随一と言われた歌麿はその艶やかな女性美に特色があります。そのため、あぶな絵や春画などでも多くの作品を残しています。

鮑取り(あわびとり)

歌麿への弾圧

江戸時代は幕府によって様々な規制、禁圧が実施されていました。それは文化面にも及んでいて、歌麿もその犠牲になっています。

歌麿は大判三枚続で太閤五妻洛東遊観之図(たいこうごさいらくとうゆうかんのず)を出しました。これは豊臣秀吉の醍醐の花見を題材にしたものですが、これにより文化元年(1805年)に歌麿は幕府によって捕らえられ入牢、そして手鎖50日の処分を受けます。

これは江戸時代、徳川家は勿論、その前の織田、豊臣時代以降の人物を扱ってはいけないというルールがあったためです。

太閤五妻洛東遊観之図(たいこうごさいらくとうゆうかんのず)

出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-1918?locale=ja)

出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-1917?locale=ja)

出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-1916?locale=ja)

歌麿死す

幕府の処分を受けた2年後の文化三年(1806年)、歌麿はこの世を去ります。幕府による処分が遠因になったと言われています。

歌麿が病気でもう長くないとわかると、多くの版元が今のうちに依頼しようとしたため、錦絵の依頼が殺到したそうです。

墓は世田谷の恵光寺にあり、別名「歌麿寺」と呼ばれています。

参考文献

洲脇朝佳「寛政期の歌麿と蔦屋重三郎

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