
田沼意知は父である田沼意次とともに、江戸幕府の実権を握り、田沼時代とも呼ばれる栄華を誇りました。しかし、その後、30代半ばで非業の死を遂げることになります。ここでは田沼意知について解説します。
2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」では田沼意知役を宮沢氷魚(みやざわひお)が演じています。
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田沼意知とは
幕府のトップとして政務を担うのが老中ですが、その老中に就いていたのが田沼意知の父、田沼意次です。

そして、田沼意知自身は老中に次ぐ要職である若年寄という役職に就いていました。
まずは略歴について記載します。
田沼意知の略歴
田沼意知は田沼意次の嫡男として寛延二年(1749年)に生まれました。意知の曽祖父は紀州藩の足軽(下級武士)だったのですが、祖父の意行(おきゆき)が仕えた徳川吉宗が紀州藩主、そして将軍へとなることで意行の代に幕府の旗本に取り立てられました。
田沼意知が生まれた時点では父、意次はまだ旗本という立場でした。しかし、宝暦八年(1758年)には御側御用取次から1万石の大名に取り立てられました。
その後、順調に出世した意次は遠江相良藩の藩主となり、他の地域と合わせて5万7千石の大名となりました。意知はその世子として、活躍することになります。
意知は天明元年(1781年)に奏者番になり、天明三年(1783年)には老中に次ぐ要職である若年寄に就任します。
これらは通常、譜代大名の当主が就く役目であり、それを30代前半の大名の世子が就くというのは異例のことでした。もちろん、これらは父、田沼意次の強力なバックアップによるものです。
意知の妻は老中にもなった松平康福の娘であり、その点からも田沼家の権勢がわかります。
田沼時代とは
老中であった父親、田沼意次とともに、田沼時代とも呼ばれるほどの権勢を誇りました。
この田沼時代は賄賂が横行した時代として、よく知られています。有名な狂歌に次のようなものがあります。
白河の 清きに魚も 住みかねてもとの濁りの 田沼恋しき
これは寛政の改革を行った白河藩主、松平定信の厳しい取り締まりを皮肉って、以前の濁っていた田沼時代を懐かしむという内容です。
そうした賄賂政治家の代名詞的なイメージから時代劇などでも悪役として描かれることが多かったりします。
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しかし、近年では田沼意次の商業を重視した幕政改革に対し、評価が高まっています。また、町人文化が花開いたというプラスの側面も評価されています。
田沼意知の最期とその影響
幕府の権力を握り、飛ぶ鳥を落とす勢いであった田沼意次にとって、それを継承するべく、世子という立場で若年寄に就任させたのが息子の意知でした。
しかし、その意知は若年寄に在任中、30代半ばという若さで亡くなります。原因はなんと江戸城内で旗本の佐野政言に切りつけられたためです。原因ははっきりとはしていませんが、私怨によるものだと思われます。
物価高で苦しんでいた庶民たちは、この佐野の行為を称賛し、佐野を世直し大明神と呼ぶ風潮もありました。
この事件は幕府の要職にあった人物というだけではなく、田沼意次の世子ということで、田沼政治を代表する人物の死であり、これ以後、田沼の権勢が衰えていくことになります。
つまり、意知の死は田沼時代の終わりの始まりだったといえます。
田沼意知の構想
田沼意次の全盛期であるとともに、30代半ばでこれからという時に亡くなったこともあり、幕政における田沼意知の実績というのは知られていません。
しかし、長崎出島のオランダ商館長だったイサーク・ティチングは意知を高く評価し、彼の死によって開国の道が閉ざされたと嘆きました。
意知が亡くなったのは天明四年(1784年)ですが、それから70年ほど後にペリーがやってきて、開国に向けて日本は激動の時代を迎えることになります。
果たして田沼意知が生きていれば、開国に向けてソフトランディングできたのでしょうか?今となっては誰にもわかりません。
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