べらぼう 田沼意致(たぬま おきむね)

幕府

田沼意致は老中、田沼意次の甥に当たります。旗本でしたが、田沼意次と意知の父子が老中と若年寄となる中、同じ田沼一族の者として、頭角を現します。

2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」では田沼意致役を宮尾俊太郎が演じています。

ここでは、田沼意致について解説します。

田沼意致とは

田沼家の家系と田沼意誠(おきのぶ)

田沼家は紀州藩の足軽(下級武士)でしたが、田沼意行(おきゆき)が紀州時代に徳川吉宗に仕えることで、運が開けました。吉宗が将軍職となるのに従って江戸で幕臣となり、旗本になることができました。

その田沼意行の長男が、家督をついだ田沼意次です。後に老中となり権勢をふるい田沼時代を現出しました。

そして、田沼意行の次男が田沼意誠(おきのぶ)です。意誠は徳川吉宗の四男である徳川宗尹(むねただ)の小姓となります。徳川宗尹は御三卿の一つ、一橋家を起こします。

田沼意誠はその後、終生、一橋家に仕え、家老職になり、最終的には800石取りとなります。因みに御三卿は独立した藩とは違い、家臣は旗本や御家人など幕臣の身分でした。

意誠は兄、田沼意次につながるルートとして政治的にも一定のプレゼンスを示していました。

田沼意誠の子、田沼意致(おきむね)

上記の一橋家の家老を務めた田沼意誠の子が田沼意致(おきむね)です。安永三年(1774年)に家督を継ぎました。その頃、出世街道をものすごい勢いで駆け上がっていた伯父の田沼意次は既に遠江相良藩主として大名になるとともに、老中職に就いていました。

意致は10代将軍徳川家治の子で時期将軍とみなされていた徳川家基に付いて、西丸目付となりました。その後、安永七年に父と同じく、一橋家の家老となりました。

徳川家基の急死により、10代将軍徳川家治には他に男子が無かったことから、後継問題が生じました。その結果、天明元年(1781年)、一橋家の当主であった一橋治済の長男が将軍、家治の世子となりました。それがのちに11代将軍となる徳川家斉です。

こうした徳川家斉の擁立に一橋家家老として尽力していた田沼意致は、小姓組番頭格・西丸御側取次見習いとなります。

しかし、田沼意知が殿中で襲われるという事件が発生し、その後、田沼派の勢いが衰え、意次が失脚します。

こうした動きの中で田沼意致も御用御取次を辞めさせられますが、その後、復帰しています。田沼意致の人生は田沼派の興亡とパラレルな関係にあったと言えるでしょう。

失脚後の田沼本家

一旗本から5万7千石の大名、そして老中にまで上り詰めた田沼意次ですが、失脚し、蟄居を命じられます。その後、亡くなった息子、意知の長男、つまり、意次の孫である田沼意明(おきあき)が後を継ぎますが、その時には2万7千石と最盛期の半分以下の知行に減らされます。

しかし、処分はこれで終わらず、さらに減封され、陸奥下村藩1万石にまで減らされます。1万石以上が大名ですから、ぎりぎり大名として存続することが許された形です。

この意明も20代半ばで亡くなり、それを継いだ弟、意壱( おきかず)もわずか21歳で亡くなり、さらにそれを継いだ弟、意信( おきのぶ)も22歳で亡くなります。

このように跡を継いだ田沼本家の者が次々と亡くなったため、田沼意致の四男である意定(おきさだ)が跡を継ぎます。つまり、田沼意致の系統が本家になりましたが、この意定も翌年に亡くなります。

その後、意次の四男である意正(おきまさ)が跡を継ぎ、この系統が明治維新まで続きます。因みにこの意正の代に、一万石ながら遠江相良藩に復帰し、自身も若年寄になるなど、一定の復権が果たせたようです。

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