
江戸の吉原遊郭の中に稲荷社がまつられていました。それが九郎助稲荷(くろすけいなり)です。吉原遊郭から外に出ることができない遊女たちにとって、願いを託す救いとなるべき存在だったと思われます。
2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」では、この九郎助稲荷を綾瀬はるかが演じています。
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ここでは九郎助稲荷について解説します。
九郎助稲荷とは
九郎助稲荷は江戸の吉原遊郭内にあった稲荷社です。吉原遊郭は下の図のように浅草の浅草寺の北方の田んぼの中に作られました。
周りは「お歯黒どぶ」と呼ばれる5メートル以上の幅がある堀に囲まれており、出入り口は吉原大門と呼ばれる門だけでした。その吉原大門では遊女が逃げ出さないように厳しく見張られていました。

そうした遊女たちにとって、願いを託すべき場所として廓内に稲荷社がまつられていました。廓内の四隅には九郎助稲荷、開運稲荷、榎本稲荷、明石稲荷の4つの社がありましたが、九郎助稲荷が最も人気があったようです。他にも吉原大門の外側に吉徳稲荷社がありました。
九郎助稲荷社の場所
以下の地図の番号はそれぞれの稲荷の場所を示しています。右側に東西南北の方位が書かれています。
1. 北部 榎本稲荷社
2. 西部 開運稲荷社
3. 南部 九郎助稲荷社
4. 東部 明石稲荷社
5. 大門外側 吉徳稲荷社

九郎助稲荷社の由来
九郎助稲荷の由来については諸説があります。
古今吉原大全の説
明和五年(1768年)に出された沢田東江の「古今吉原大全」では「九郎助稲荷の事」として、次のように記載されています。
和銅四年に白狐黒狐が天より下り、そのうち黒狐(こっこ)を千葉九郎助の田の畔(くろ)に勧請して「田ノ畔いなり」としました。その後、飢饉が続いた時、この神に願をかけたところ、聞き届けられ豊かになりました。これによりますます神威を増して、諸願成就するようになりました。
吉原(=旧吉原)が作られるとき、この地の鎮守とされました。その際、千葉氏が絶えたので、「九郎助がいなり」と号すようになりました。
新吉原に移るとき、この稲荷も一緒に移り、正一位九郎助稲荷大明神とあがめられるようになりました。新吉原では縁結びの神となっています。
毎年八月の祭礼には練りものなどを行い、夜はにわか(にわか狂言)を行い、見物の群衆が山のように来ます。
また、白狐は「志ら籏いなり」として、白銀丁一丁目に勧請されています。
九郎助稲荷の後継である吉原神社の公式サイトを見ると、上記の説を取っているようです。
武江年表の説
江戸後期に斎藤月岑が書いた「武江年表」の万治元年(1658年)の箇所に次のような記載があります。

つまり、今戸村の百姓、九郎吉の子、九郎助が畑の中の道にあった稲荷社を吉原に移し、これが九郎助稲荷であると書かれています。この今戸村は現在の台東区今戸のようです。
木村捨三の説
木村説は上記の説を否定し、九郎介という局女郎(下級の遊女)5人の遊女屋があり、そこにあった稲荷社が九郎助稲荷の前身だとされています。
九郎助稲荷社の祭礼
午の日の縁日
稲荷社の総本宮は京都の伏見稲荷大社とされています。ここでは2月の初午の日に祭礼が行われています。一般に稲荷社ではこの日に祭礼が行われていて、おいなりさん(稲荷ずし)を食べる風習があったりします。

午の日というのは子・丑・寅・卯・辰・巳・午…という十二支を日に当てたもので、12日に一度回ってきます。そのうち、2月の最初の午の日に祭礼が行われていたわけです。
九郎助稲荷社では毎月午の日に縁日が開かれ、小間物商人や植木屋などが出店していたようです。特に2月の初午の日は多くの遊女たちがそれぞれの願いを持ってやってくるため大変賑わったようです。
俄(にわか)
江戸時代から明治にかけて、路上で俄と呼ばれる素人による即興の芝居が行われていました。これは俄狂言(にわかきょうげん)の略のようです。遊郭などでも演じられ、吉原で行われるものは吉原俄と呼ばれていました。
毎年8月1日から1ヵ月間、この俄が九郎助稲荷と秋葉権現の祭礼で行われていました。秋葉権現は吉原の大門をくぐって、メイン通りをまっすぐ歩いていくと、その突き当りにまつられていました。
俄は吉原の幇間が演じたと考えられていて、笛、鉦、太鼓など、にぎやかなのお囃子の中、吉原の芸者が練り歩きました。
この祭礼の起源についてはいくつかの説があります。例えば、享保十九年(1734年)の八月一日に正一位の位階を受けた際の祭りで演じられた踊りが起源という説があります。
また、もっと遅い時期である安永から天明のころに仲の町の茶屋の主、桐屋伊兵衛が角町の妓楼中万字屋たちと共に行った俄狂言が起源という説もあります。
九郎助稲荷御縁日 「春色梅美婦禰」為永春水 作, 歌川国直, 静斎英一 画
こちらは九郎助稲荷の縁日の賑わいが描かれている貴重な場面です。

吉原神社への統合とその後
明治十四年にこれらの5つの稲荷社(九郎助稲荷、開運稲荷、榎本稲荷、明石稲荷、吉徳稲荷社)が吉徳稲荷社があった場所に合祀され、吉原神社となりました。
以下は明治十九年に出版された「新吉原細見記 : 故郷年齢」に記載されている図です。かつて吉原大門の外側にあった吉徳稲荷社が「吉原神社」となっています。

しかし、大正十二年の関東大震災で焼けてしまい、その後、水道尻付近の仮社殿に移した後、現在の東台東区千束3丁目に移されました。その時に吉原弁財天も合祀されました。
昭和に入ると、東京大空襲により再び焼失し、現在の社殿は昭和43年に再建されたものです。

コメント
吉原に祀られていた他の稲荷についても知りたいのですが、教えて下さい。榎本稲荷が気になります