べらぼう 富本午之助(富本豊前太夫)

歌舞伎

後に、富本豊前太夫(とみもと ぶぜんだゆう)として知られるようになる富本午之助(とみもと うまのすけ)は浄瑠璃の富本節の隆盛に貢献した人物です。歌い手として、その美声は有名でした。

2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」では富本午之助役を寛一郎が演じています。

ここでは、富本午之助について見ていきます。

富本午之助(とみもと うまのすけ)とは

浄瑠璃と富本節

浄瑠璃は多数の流派があり、それぞれ「○○節」と名乗っています。富本節もその一つですが、現在、それ以外に義太夫節、清元節、新内節、常磐津節、河東節、一中節、宮薗節などがあります。 

竹本義太夫と新浄瑠璃の誕生

まずは簡単に浄瑠璃について説明します。

浄瑠璃というのは三味線を弾きつつ、太夫が詞章を語るもので、音楽と演劇的要素を兼ね備えた芸能です。浄瑠璃は語り物と言われるように、歌うよりも語ることに力点が置かれています。

上方で活躍した義太夫節の創始者、竹本義太夫は近松門左衛門とのコンビで人気を博しました。これ以後の浄瑠璃は新浄瑠璃とされ、それ以前の古浄瑠璃と区別されています。

浄瑠璃と文楽、歌舞伎

浄瑠璃には太夫と三味線だけで行う素浄瑠璃もありますが、一般的には人形芝居とセットで行われる人形浄瑠璃がよく知られています。

また、浄瑠璃は歌舞伎音楽としても使われるなど、歌舞伎と切っても切れない関係にあります。

富本節の誕生

この竹本義太夫と同じ時期に上方で活躍した浄瑠璃語りに都太夫一中(みやこだゆういっちゅう)がいます。一中節の創始者として知られています。

この一中の門下に豊後節の創始者、宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)がいます。この宮古路豊後掾の高弟で、養子でもあった宮古路文字太夫が常磐津節の始祖となるなど、この宮古路豊後掾の系統からは現在に続くたくさんの流派が生まれています。

富本節もその一つです。

富本節の祖 富本豊前掾(とみもと ぶぜんのじょう)

富本節を創始したのは富本豊前掾(とみもと ぶぜんのじょう)です。この富本豊前掾は富本午之助の父親です。ですから、午之助は富本節の二代目ということになります。

先ずは、父親の富本豊前掾について少し解説します。富本豊前掾は元々、前述の宮古路豊後掾(みやこじ ぶんごのじょう)の門人として、宮古路品太夫と名乗り、その後、宮古路文字太夫(常磐津文字太夫)について宮古路小文字太夫(常磐津文字太夫)と名乗っていました。

その後、独立して自ら一派を立ち上げ富本豊志太夫と名乗りました。すなわち富本節の誕生です。富本豊志太夫は掾号を賜わり、富本豊前掾となり、また、さらに筑前掾となっています。

北尾政演が描いた富本豊志太夫 黄表紙「日東国三曲之鼎」より

富本節の隆盛と富本豊前太夫

前述のように富本節を立ち上げた富本豊前掾の子で二代目となるのが富本午之助です。宝暦四年(1754年)生まれで、 文政五年(1822年)に亡くなった人物です。最初、2代目豊志太夫を名乗り、さらに2代目豊前太夫を名乗りました。

ちなみに2代目豊前太夫と名乗っていましたが、父の初代は豊前太夫とは名乗っていません。以後、代々、豊前太夫を名乗ります。

60を超えてから掾号を賜り、富本豊前掾藤原敬政となります。美声で知られたこの2代目の時に富本節は隆盛を迎えます。

以下の絵は喜多川歌麿が描いた富本節の吉原芸者 富本斎富(とみもと いつとみ)です。当時、富本節が流行っていたことがわかります。

芸者酔い姿(いつとみ)

出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-618?locale=ja)

また、豊前太夫は顔が面長であったことから、馬づら豊前とも呼ばれました。下記の鳥橋斎栄里の描いた浮世絵にその特徴が表れています。

「江戸花柳橋名取 二代目富本豊前掾』 鳥橋斎栄里画

出典:メトロポリタン美術館 

この富本豊前太夫が60歳の頃、二世富本斎宮太夫という人物が富本節から分派して、清元延寿太夫(きよもと えんじゅだゆう)と名乗り、新たに清本節を立ち上げ人気を博しました。このように、時代ごとに様々な流派の興亡がありました。

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