スポーツでもビジネスでもライバルがいるほうが、お互いに切磋琢磨して、研鑽を重ねていけるものです。蔦屋重三郎にとって、西村屋与八はそう言った存在だったのではないでしょうか?2025年の大河ドラマ「べらぼう」では西村まさ彦が演じています。同じ西村つながりで面白いですね。
ここでは、西村屋与八とはどういった人だったのか解説していきます。
西村屋与八とは
西村屋与八の版元印(山形に三つ巴 紋)
西村屋与八は江戸時代に浮世絵をはじめ、様々な書物を扱っていた版元です。姓は日比野で、永寿堂と号していました。18世紀半ばに当たる宝暦から明治直前の慶応にかけて活動し、初代から三代まで続きました。
店は日本橋馬喰町2丁目に構えてましたが、当時、日本橋は多くの一流版元が集まる書物のメッカとも言える場所でした。
西村屋は蔦屋が活躍するかなり前の時期から活動していて、初期から中期の浮世絵師である西村重長や鈴木春信、一筆斎文調、勝川春章などの作品も扱っています。
次に、蔦屋との因縁について説明します。
蔦屋と西村屋との因縁
その1:鱗形屋を巡って
蔦屋重三郎は吉原で鱗形屋の出版した商品を売る小売業者として出発しました。鱗形屋は江戸でも老舗の版元でしたが、手代が引き起こしたトラブル等、様々なトラブルにより没落していきました。
蔦屋は鱗形屋が独占していた吉原の案内書「吉原細見」を自ら発行するようになり、版元業界を日の出の勢いで駆け上がっていきました。
鱗形屋孫兵衛の次男であった西村屋与八にとって生家の没落と、それにとって代わるように見えた、元小売業者の蔦屋重三郎に対して、微妙な感情を抱いていたかもしれません。
その2:「雛形若菜の初模様」を巡って
磯田湖龍斎画「雛形若菜初模様・玉や内しら玉」
出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-2244?locale=ja)
安永五年から天明三、四年頃に磯田湖龍斎と鳥居清長による錦絵シリーズ「雛形若菜の初模様」が100点以上出されています。この中に蔦屋重三郎と西村屋との共同出版のものが10図あることから、最初は共同で始めた事業だったのが途中で蔦屋が降ろされたのではないかとされています。
駆け出しの版元であった蔦屋にとってこれは屈辱的な出来事であった可能性があります。
その3:美人画の覇権をめぐって
西村屋は天明年間には美人絵の分野を席巻していた鳥居清長の版元として一時代を築きました。これを打ち砕くべく、寛政年間には蔦屋重三郎が喜多川歌麿を擁して、西村屋ー鳥居清長ラインに挑戦しました。
こうした美人画をめぐる争いはビジネス上の争いを超えて、両者の意地とプライドが激突したものだったのかもしれません。
その後、蔦屋ー喜多川歌麿ラインが活躍するようになると、今度は西村屋が歌川豊国や国貞、鳥文斎栄之、勝川春潮などを擁して、それに対抗しようとします。
その4:ビジネス手法をめぐって
二代目西村屋与八について、滝沢馬琴は次のように述べています。
「其心ざま愚ならず売買にさかしき者なるが常にいふやう、版元は作者画工等の名を世に高くすなればその為に引札をするに似たり、かゝれば作者まれ画工まれ印行を乞ふべきものなり、吾は決して求めず」
ここから、与八はビジネス的にやり手であったことがわかります。そして、作者や絵師は版元のおかげで有名になれるわけだから、こちらから頭を下げるのではなく、作者や絵師のほうからお願いしてくるべきであると述べている。
なかなかの上から目線ですが、それなりの実力があったからでしょう。それに対して、蔦屋重三郎は作者や絵師の懐の中に入り込み、人間関係のネットワークによってビジネスを進めていたと思われます。
こうした点でも両者のビジネス手法の対称性が表れています。
以上いくつかの点を挙げてきましたが、蔦屋にとって西村屋与八は因縁の好敵手だったのではないかと思われます。
初代西村屋与八
古希を記念して初代与八を描いたと思われる歌川豊国による肖像画の年代から、1720年代の中頃(享保の中頃)に生まれたと推定されます。そうすると蔦屋重三郎が活躍した安永、天明、寛政期にはおおよそ50代~70代だったと想定されます。
二代目西村屋与八
二代目は鱗形屋孫兵衛の次男で、西村屋に婿養子として入りました。鱗形屋は江戸の地本問屋としては老舗でしたが、その後、業界が発展し、競争が激化する中、トラブルに見舞われ没落していきました。
また、二代目西村屋与八は山巴亭青江(サンパテイ セイカウ)、栄寿斎、松泉堂という号もあり、戯作も行っています。
山巴亭青江作「古道具昔語」
三代目西村屋与八
葛飾北斎の門人である昇亭北寿の風景画や天保年間の初期に出された葛飾北斎の「富嶽三十六景」などを出版しています。こうした風景画の確立への貢献もあったことが知られています。
参考文献
コメント