べらぼう 恋川春町

戯作者

「金々先生栄花夢」で大ヒットを飛ばした戯作者、恋川春町。その驚くべき正体と、悲惨な最後について解説します。

2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」では恋川春町役を岡山天音が演じています。

恋川春町とは

吾妻曲狂歌文庫 より【東京都立中央図書館所蔵】 

倉橋 格(くらはし いたる)としての恋川春町

戯作者、浮世絵師、はたまた狂歌師としても知られる恋川春町ですが、本名は倉橋 格(いたる)と言います。通称は隼人、その後、寿平としました。そこから取った寿山人、寿亭という号もあります。

御三家の一つ、紀州徳川家附の家老、安藤家の家臣であった桑島勝義の次男として延享元年(1744年)に生まれました。

10代の終わり頃、駿河小島藩(おじまはん)という1万石の小藩に仕えることになり、同年に、小島藩士であった父方の伯父、倉橋勝正の養子となりました。

小島藩は藩士が100人ほどの小藩でしたが、その中で、順調に出世していき、側用人、用人等を経て、石高120石の年寄本役に就任しました。これらの経歴から藩士としても有能であったことが分かります。

恋川春町という名も小島藩の江戸藩邸が小石川春日町にあったことに由来しています。

盟友 朋誠堂喜三二

恋川春町の盟友として知られているのが戯作者の朋誠堂喜三二です。

朋誠堂喜三二は秋田藩佐竹氏に仕える平沢家の養子となり、秋田藩士となりました。その後、藩の外交を担う留守居役を務めるまでになりました。

1万石の小藩に仕える春町と、表向き20万石(実情はそれ以上)の大藩である佐竹家に仕える喜三二、年齢でも春町が10歳ほど下と、違いはあるものの、藩政を担う幹部として同じような立場にあったこともあり、二人は固い絆で結ばれていたようです。

二人は本業のかたわら戯作者、狂歌師などとして文学、芸術に共に情熱を捧げていたと思われます。

安永二年(1773年)に喜三二は金錦佐恵流(きんきんさえる)という名で洒落本「当世風俗通」を書いています。この本の挿絵は恋川春町が描いています。

他にも喜三二作、春町画というコンビで多くの作品を出しています。これらの点からも二人の蜜月ぶりがわかります。

洒落本「当世風俗通」 金錦佐恵流作 恋川春町画

浮世絵師 恋川春町

さて、恋川春町と言えば、後述のように「金々先生栄花夢」(きんきんせんせいえいがのゆめ)の大ヒットにより、戯作者として知られています。

しかし、上記の「当世風俗通」の挿絵を描いたように浮世絵師という側面もあります。実際、「金々先生栄花夢」においても、戯作だけでなく、挿絵も春町が描いています。

では、浮世絵は誰に学んだのかと言うと、妖怪画で知られる鳥山石燕の下で学びました。ですから、同じく石燕に学んだ喜多川歌麿と兄弟弟子ということになります。

また、役者絵、美人絵で知られる勝川春章にも学んだとされ、恋川春町という名も、上記の小石川春日町に藩邸があったというだけでなく、“勝川春章”という名にも由来しているとされています。

金々先生栄花夢の大ヒット!

恋川春町を一躍有名にしたのが安永四年(1775年)に出版された「金々先生栄花夢」という黄表紙作品です。内容は立身出世を目指す若者が江戸に出ようとしたところ、夢の中で金持ちの養子となり、遊里で放蕩の限りを尽くしたあげく勘当され、栄華もはかないものと知り、生まれ故郷に帰るというストーリーです。

この作品は、小説では不思議の国のアリス、銀河鉄道の夜、マンガではハイスクール!奇面組などと同じく、いわゆる夢オチと呼ばれるものです。

金々先生栄花夢 恋川春町作画 安永四年(1775年)

太田南畝はこの作品により、草双紙が一変して、大人向けの作品へと変わったと評価しています。いわゆる黄表紙の出現であり、黄表紙の元祖と言われる所以です。

恋川春町の黄表紙

春町は洒落本なども書いていますが、やはり中心は「金々先生栄花夢」以降、書いた多くの黄表紙です。盟友の喜三二とともに初期の黄表紙界を牽引しました。

高慢斎行脚日記 恋川春町作画 安永五年(1776年)

金銀先生再寐夢 恋川春町作画 安永八年(1779年)

無益委記(むだいき) 恋川春町作画 

狂歌師 酒上不埒

春町は狂歌師としても活動しており、酒上不埒(さけのうえのふらち)と称していました。意味は“酒の上で不届きなふるまいをする”ということです。

最近では日常で不埒という言葉はあまり使いませんが、時代劇ファンだと桃太郎侍の“不埒な悪行三昧”というセリフは有名ですね。

この狂歌名については、その由来を示した資料は見つかっていません。酒癖が悪かったので、自ら自嘲気味にこうした名を付けた可能性も考えられています。

冒頭に揚げた以下の図は「吾妻曲狂歌文庫」【東京都立中央図書館所蔵】の中から取ったものです。この狂歌絵本は宿屋飯盛撰、北尾政演画によるもので、蔦屋重三郎によって出版されています。

酒上不埒:もろともに ふりぬるものは 書出しと くれ行としと 我身なりけり

寛政の改革と悲惨な最後

黄表紙の開拓という文学的金字塔を打ち立てた恋川春町でしたが、田沼意次が失脚し、松平定信による寛政の改革が始まるとにわかに雲行きが怪しくなってきます。

松平定信の文武奨励策を皮肉った盟友、朋誠堂喜三二の「文武二道万石通」(ぶんぶにどうまんごくとおし)は好評を博しましたが、幕府より絶版処分となりました。主君、佐竹公より咎められ、以後、黄表紙から手を引くことになりました。

文武二道万石通 朋誠堂喜三二作 天明八年(1788年)

一方、恋川春町も翌年に文武奨励策を皮肉った「鸚鵡返文武二道」(おうむがえしぶんぶのふたみち)を執筆していましたが、こちらも絶版処分となりました。

鸚鵡返文武二道 恋川春町作/北尾政美画 天明九年(1789年) 

鸚鵡返文武二道【東京都立中央図書館所蔵】

春町の場合、それにとどまらず、寛政元年(1789年)に幕府より呼び出しを受けます。しかし、病気と称してそれに応じず、隠居した後、同年に亡くなります。一説では自殺ともいわれています。

このように寛政の改革では出版統制も行われましたが、春町の著書は幕政に触れる内容であったことから、悲惨な末路となってしまいました。

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