べらぼう 扇屋宇右衛門(おうぎやうえもん)

吉原関係

吉原の妓楼、扇屋の主人、扇屋宇右衛門。墨河(ぼくが)という俳号を持つことでも知られています。

2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」では、この扇屋役を山路和弘が演じています。

ここでは扇屋宇右衛門について解説します。

扇屋宇右衛門とは

吉原の妓楼、扇屋

吉原の妓楼にはランクがあり、上から順に大見世、中見世、小見世となります。これ以外に、さらに下のランクとして切見世などがあります。このうち、扇屋は最も格の高い大見世になります。

扇屋宇右衛門の親の代の時は小さな娼家でしたが、それを宇右衛門が大きくしたようです。ビジネス的な面での才覚があったのでしょう。

場所は吉原の江戸町一丁目にありました。中国では扇を「五明」というため、五明楼とも言われました。吉原の妓楼に楼号を付けたのは扇屋が初めてと言われています。

以下の図は安永八年(1779年)の吉原細見に掲載されている扇屋の箇所です。赤で囲んだ部分に「あふきや宇右衛門」と妓楼主の名前が書かれています。

遊女の名前が三段にわたって書かれていますが、上段がいわゆる花魁ということになります。

※吉原細見について詳しくはこちらの吉原細見と蔦屋重三郎を参照!

扇屋の遊女

扇屋には瀧川や花扇などの名妓がいたことで知られ、浮世絵などにも描かれています。

郭中美人竸・扇屋瀧川 鳥高斎栄昌画

出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-2679?locale=ja)

高名美人六家撰・扇屋花扇 喜多川歌麿画

出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-528?locale=ja)

文化人としての扇屋宇右衛門

扇屋宇右衛門は本姓は鈴木氏で、十八大通(じゅうはちだいつう)の一人とされ、通人として知られていました。遊女に対しても慈愛の心で接していたと言われています。

延享元年(1744年)生まれなので、蔦屋重三郎よりも6歳ほど年上ということになります。

俳号 墨河

扇屋宇右衛門は墨河(ぼくが)という俳号を持ち、こちらの名前でもよく知られていました。また、著名な国学者として知られる加藤千蔭から和歌や書を学びました。「頗る奇才文思あり」とされ、茶の湯もたしなみ、風雅な人物だったようです。

狂名 棟上高見

狂歌がブームとなる中、扇屋宇右衛門は四方赤良こと太田南畝に師事して、棟上高見(むねあげのたかみ)という狂名で活動しました。狂名を名付けたのは師の南畝です。グループとしては吉原連に属していました。

吉原連を主催していたのは、狂名、加保茶元成こと大文字屋市兵衛でした。蔦唐丸(つたのからまる)こと蔦屋重三郎も吉原連に属しました。

鶯亭金升の「狂歌の栞」には棟上高見の句が記されています。

むづきなぬかの夜 四方赤良、あけらかん江、加保茶もとなり、蔦から丸などとぶらひ来ませしに雪さへふり出ければ

蝶と飛び ちどりとふれる 淡雪の こよひはとまれ 七くさのはに

扇屋宇右衛門を取り巻く狂歌師との交流の様子がわかります。

扇屋宇右衛門の妻

宇右衛門の妻は稲城(いなげ)と言い、宇右衛門と同様、和歌と書を加藤千蔭に学びました。また、狂歌も詠んでいます。狂名は赤しみの衣紋で、これを名付けたのは太田南畝です。百人一首にも出ている赤染衛門をもじった名前です。

扇屋の没落

扇屋宇右衛門は寛政十三年(1801年)に50代半ばで亡くなりました。妻は文政八年(1825年)に亡くなっています。

扇屋は戯作者の山東京伝とも親しかったので、京伝の家には墨河夫妻の短冊などがあったようです。その京伝の弟、山東京山が扇屋のその後について記載しています。

それによると、宇右衛門の息子が愚かだったため、扇屋が衰えていき、文政の末についに潰れてしまい、吉原を去ったようです。

噂では、その娘、つまり宇右衛門の孫は四ツ谷新宿豊倉にて飯盛女、いわゆる宿場女郎をしているとのことで、宇右衛門もあの世で悲しんでいるだろうと述べています。

コメント