蔦屋重三郎は吉原で生まれ育った後、本を扱う青年企業家として活動を始めたのも吉原です。
その後、一流の本屋が集まる日本橋へと進出していきます。
ここでは、日本橋へと進出するまでの重三郎の軌跡を追います。
蔦屋重三郎と吉原
重三郎の出身地
蔦屋重三郎は寛延三年(1750年)に尾張出身の父、丸山重助と江戸生まれの母、広瀬津与の子として江戸の吉原で生まれました。本名は珂理(からまる)で、通称は重三郎でした。重三郎の「重」は父、重助から取られたと言われています。
父親の仕事は詳しくはわかっていませんが、吉原で生まれたことから吉原で働いていたと考えられています。また重三郎以外に兄弟がいるかについてはわかっていません。
その後、7歳の時に蔦屋を名乗る喜多川家に養子としてもらわれます。吉原には茶屋などに蔦屋を名乗る店がいくつかありました。蔦屋重三郎というのは、ここからきています。
重三郎、起業する
安永二年(1773年)、20代前半になった重三郎は、吉原に店を出し、「吉原細見」を販売するようになります。この吉原細見というのは遊郭である吉原の案内書で、今でいうナイト情報誌のようなものです。吉原細見を出していた版元は昔はいくつかありましたが、重三郎が店を開く当時は老舗の版元である鱗形屋(うろこがたや)が出版を独占していました。重三郎はその鱗形屋の出す吉原細見の小売り業者として出発したのです。
そうした中、小売りだけではなく、自らも版元として出版を始めます。その際には鱗形屋からもバックアップがあったと考えられてます。
その後、安永四年(1775年)にトラブルにより吉原細見を発表できなくなった鱗形屋のスキを突き、重三郎や小泉忠五郎は自ら吉原細見を発行します。そして、安永五年(1776年)からは、吉原細見の発行は、鱗形屋版と蔦屋版が並立することになります。
ですが、天明三年(1783年)には、並立が終わり、蔦屋の独占事業となります。実はこの期間、鱗形屋はトラブルにより、失墜していきます。これにより、鱗形屋系列とも言える蔦屋もその影響を受けます。そうした危機を乗り越えて重三郎は躍進していきます。
その原動力は自らの才覚による人的なネットワークにあったとされます。当時のベストセラー作家だった朋誠堂喜三二や浮世絵界の重鎮、北尾重政などとの交友、ビジネス上のタッグが重三郎が社会に躍り出ていく上で大きな力になったのです。
参考文献
松木寛「蔦屋重三郎: 江戸芸術の演出者」
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