べらぼう 島津重豪(しまづ しげひで)

大名家

薩摩藩の8代藩主であった島津重豪は外様大名にも関わらず、大きな権勢を誇りました。また、西洋に非常に興味を示す蘭癖大名としても有名でした。

2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」では、この島津重豪役を田中幸太朗が演じています。

ここでは島津重豪について見ていきます。

島津重豪とは

島津重豪の略歴

延享二年(1745年)に島津家の分家、加治木島津家に生まれ幼名は善次郎と言いました。父はその後、加治木島津家の当主から本家を継いだ7代藩主の島津重年です。

父が藩主を継いだことで、善次郎が加治木家当主となり島津久方と名乗りました。宝暦四年(1754年)に藩主となっていた父、重年の嗣子として本家に入り、忠洪(ただひろ)と名を変えました。その父も翌年に20代半ばという若さで亡くなったため、忠洪が9歳で本家を継いで8代藩主となりました。

その後、元服の際、9代将軍家重から「重」の一字をもらい重豪(しげひで)と名を変えました。重豪は父とは異なり長命で、天保四年(1833年)、80代後半で亡くなりました。

また「南山」という号もありました。

島津家のポジション

さて、ここで島津家のポジションについて簡単に確認しておきましょう。島津家は鎌倉時代以降、九州南部に勢力を持ち、戦国時代になると戦国大名として九州に覇権を築きました。しかし、九州制覇も視野に入ったころ、豊臣秀吉による九州征伐により、島津は本拠地の南九州に押し込められました。

関ヶ原の戦いでは西軍に属しましたが、西軍は敗北を喫します。その際の島津義弘の撤退戦は有名で島津の退き口と呼ばれています。

そうした中、徳川家康は島津征伐も検討しますが、最終的に島津は本領安堵を勝ち取ります。

つまり、島津家は毛利家や上杉家と同じく、関ヶ原後に徳川家に臣従した外様大名と言えます。名目的な知行地ランキングにおいては、70万石を超え、加賀の前田家に次ぐ2位という規模でした。しかも琉球王国を従えているという点も見逃せません。

こうした点から、徳川幕府にとって、島津家は一貫して十分に警戒すべき相手だったと言えるでしょう。

将軍の岳父へ

将軍家の正妻、いわゆる御台所(みだいどころ)は基本的に宮家か五摂家、あるいは皇女、つまり天皇家をはじめ公家でもトップクラスの家柄から選ばれました。

これは朝廷との関係や家柄、家格の高さによって箔付けするという点と共に、特定の有力大名(特に外様大名)との縁組を避けるという点があったようです。

特定の大名家から御台所が出ると、その大名家に将軍の岳父、さらには外祖父ができることで、権力を持つ可能性が懸念されたためです。

そんな中、娘の茂姫を将軍家の御台所にすることに成功したのが島津重豪です。最初、一橋家の当主、一橋治済の息子・豊千代と3歳の時に婚約し、その後、豊千代が10代将軍徳川家治の後継者となることで、御台所となりました。

将軍家治には世子の家基がいましたが、鷹狩の際に急遽体調を崩し、死去しました。それまで元気だったティーンエージャーの家基が急死したことから毒殺が疑われています。

いずれにしろ、将軍となることが決まった一橋家の豊千代の婚約者が外様大名の島津家の娘というのは問題でした。しかし、島津重豪はこれを5代将軍綱吉及び8代将軍吉宗の養女に当たる浄岸院(薩摩藩5代藩主、島津継豊の継室)の遺言と主張し、押し通しました。

島津家から直接、豊千代に嫁ぐのではなく、いったん近衛家の養女となってから嫁ぐという形式をとりました。これは、その後、島津斉彬の時代に篤姫(天祥院)が将軍家に嫁ぐ際の先例となりました。

こうして将軍の岳父という地位を得た島津重豪は高輪下馬将軍と呼ばれるほどの権勢を誇りました。

蘭癖大名

江戸時代、西洋とのつながりは長崎の出島を通じたオランダに限られていました。そうした西洋の文物に興味を持つ人たちを蘭癖(らんぺき)と呼びました。西洋の文物は高価であったため、学者よりも大商人や大名などの上級武士が多かったようです。

中でも大名は蘭癖大名と呼ばれましたが、島津重豪はその代表的な人物の一人に揚げられます。オランダ商館に出向き、オランダ船に乗るなど、非常に興味を示し、イサーク・ティチングなどの商館長とも交流しました。また、有名なシーボルトとも交流がありました。

オランダ語を話すことができ、ローマ字も習得していたそうです。

学者大名

島津重豪は知的好奇心に満ち、学者大名としても知られています。その一部が上述のヨーロッパ文化への興味だったと言えます。藩校の造士館や演武館、医学院の建設など、これは後の世代の育成へとつながりました。

「島津国史」の編纂を造士館の教授だった山本正誼に命じ、これは享和二年(1802年)に完成しました。

また、重豪に仕えた本草学者で医者の曽占春(そう せんしゅん)は重豪の学術的事業を支えました。曽占春が命を受けて行ったものとして、江戸時代を代表する農書の一つ「成形図説」の編纂、中国語辞書「南山俗語考」の編纂(ちなみに重豪は中国語が巧みで会話も可能なほどでした)、鳥について解説した「鳥名便覧」、重豪の米寿に際して学問的業績をまとめた「仰望節録」などがあげられます。

「成形図説」

おわりに

以上のように島津重豪には多くの功績が認められ、名君という評があるのもわかります。しかし、財政的な面では非常に問題も多かったようで、華美な生活を含め、問題も生じています。

しかし、幕末に向けて島津家が興隆していく礎となった点も見逃せません。特に島津斉彬が活躍する上で、その素地となったと言えるでしょう。

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