朋誠堂喜三二

戯作者

起業家にとって創業当初は厳しい時期です。そうした時期の蔦屋重三郎を支えた大御所的人物がいました。それは戯作者の朋誠堂喜三二と浮世絵師の北尾重政です。2025年のNHK大河ドラマでは喜三二の役を尾見としのりが演じています。

ここでは朋誠堂喜三二について解説していきます。

朋誠堂喜三二とは

朋誠堂喜三二(ほうせいどう きさんじ)の本名は平沢常富(ひらさわ つねとみ)といい、出羽国久保田藩(秋田藩)、佐竹氏に仕える藩士でした。俗名では平沢平角あるいは平格と名乗ってました。国元ではなく、江戸に常勤しており、藩の幹部的な立場(留守居役)でした。

平沢常富としての喜三二

喜三二の生い立ち

喜三二は享保二十年(1735年)に西村平六久義の三男として江戸で生まれ、昭茂と名付けられました。父親は幕府の旗本で寄合衆だった佐藤三四郎豊信に仕えていました。同じく佐藤三四郎豊信に仕える黒川兵右衛門武貞の娘が喜三二の母親です。

その後、10代の前半である寛延元年(1748年)にいとこ(従姉)が平沢常房に嫁いでいたという縁により、平沢家の嗣子となり、平沢常富となりました。では、喜三二が養子となった平沢家とはどういう家だったのでしょうか。

実は平沢家は兵法三大源流の一つ、陰流(かげりゅう)の流祖、愛洲移香斎久忠(あいす いこうさい ひさただ)の末裔です。陰流は柳生新陰流などの元となった流派です。

移香斎の息子愛洲小七郎宗通のとき、常陸の佐竹氏に仕えるようになり、平沢村を領地としてもらったことで、平沢姓を名乗るようになりました。その四代目の在通の次男、常善より分かれた家が喜三二の入った家です。つまり、平沢家の中では分家筋ということになります。

以上の点からわかるように秋田藩留守居役という点が注目される喜三二ですが、元々、江戸生まれ、江戸育ちだったのです。また、武道の家柄から、喜三二のような文化人が出たのも面白いですね。

秋田藩士としての喜三二

平沢家に入った喜三二は藩主、佐竹義真の小姓を務め、宝暦四年(1754年)には近習役、明和三年(1766年)には養父が亡くなり家督を継ぎました。2年後の明和五年(1768年)には藩主、佐竹義敦の刀番になりました。

その後、40代になった喜三二は安永七年(1778年)に留守居助役に、天明三年(1783年)に留守居本役につきました。この留守居役というのは藩の外交を担うような重職でした。

このような経歴から喜三二は藩士としての実務能力も非常に高かったことがうかがえます。特に外交のような折衝、情報収集に関して高いコミュニケーション能力があったのだと思われます。

当時の秋田藩

江戸時代は太平の世と言われてます。特に文化が花開いた江戸の地で、喜三二は太平を享受しつつ、文学に没頭できた…なんて思うかもしれません。

ですが、当時の秋田藩はそうした状況ではありませんでした。金銭的には非常に窮迫しており、また、有名な佐竹騒動(秋田騒動)が起きたのもこの時期です。この騒動は銀札発行を契機としていますが、藩主擁立に関する二つの分家筋、壱岐守家と式部少輔家の対立が背景にあるとされています。藩主毒殺もあった…などともいわれています。

この騒動により、40人が切腹をはじめ処分をうけることになります。こうした中で、藩主の近くで勤務していた喜三二は激動の中で過ごしていたと言えるでしょう。

文学者としての喜三二

喜三二の文学的素養

朋誠堂喜三二が金錦佐恵流(きんきんさえる)の名で洒落本「当世風俗通」を書き、江戸の文壇にデビューするのは安永二年(1772年)、30代後半の時です。では、それまでの間、どのように文学的素養を身に着けていったのでしょうか。

金錦佐恵流(朋誠堂喜三二)「当世風俗通」

俳人:古来庵馬場存義に学ぶ

養子に入る前の西村家では父が歌舞伎好き、兄は狂歌といった環境の中、喜三二は10代前半の頃、俳人の古来庵馬場存義(ばば ぞんぎ)の元に父親と通っていました。その際、義秀という俳号を使ってました。その後、平沢家に養子に行った後も、存義のところに通っていたようです。

この存義門下には佐藤哲阿弥、酒井抱一などがいました。後者は姫路藩主の弟で絵師としても著名ですが、ここでもう一人の哲阿弥について紹介します。

佐藤哲阿弥

哲阿弥こと佐藤又兵衛祐英は俳諧で頭角を現し、酒井抱一とも仲が良かった人物ですが、何より秋田藩士で喜三二の先輩でした。また、喜三二は天明三年(1783年)に留守居役になりますが、その前任の留守居役が哲阿弥でした。

喜三二が「当世風俗通」で江戸の文壇にデビューした安永二年(1772年)に、秋田藩は秋田にある阿仁銅山の改革のため平賀源内を秋田に招請しています。これに関して、哲阿弥も関係しているようです。

哲阿弥には知久良先生という狂歌名があり、この名で喜三二の本「柳巷訛言」(さとなまり)に序を書いています。

朋誠堂喜三二「柳巷訛言」 序

実務面において藩の上司としてはもちろん、文芸の先輩としても哲阿弥は喜三二に大きな影響を与えたと思われます。

俳人:雨夜庵山本亀成に入門

明和三年(1766年)、30歳を過ぎた喜三二は俳人、雨夜庵山本亀成に入門します。存義の元に通い、義秀という号があったことを述べましたが、喜三二の俳号としては雨後庵月成、朝東亭などが知られています。

戯作者としての喜三二

明和六年(1769年)の吉原細見の「登まり婦寝」、翌春の「和歌三鳥」の序は喜三二によって書かれたと考えられています。

宝暦年間は喜三二にとって20代になりますが、この時期を振り返って自らを「宝暦年中の色男」と称したことからわかるように、遊所で経験を積んだ喜三二とって30代半ばに差し掛かろうとする時期には吉原細見に序を書くだけの力量を持っていたということでしょう。

恋川春町との関係

上述のように喜三二は安永二年(1772年)に洒落本「当世風俗通」を書きますが、挿絵を担当したのが恋川春町です。

春町は喜三二より10歳ほど年下ですが、喜三二にとって盟友ともいえる存在でした。二年後の安永四年(1774年)に春町は「金々先生栄花夢」で黄表紙というジャンルを確立するとともに大ヒットを飛ばしました。

恋川春町「金々先生栄花夢」

駿河小島藩という1万石の小藩ながら政治面では中枢にかかわり、年寄本役まで上りました。こうした経歴は喜三二と同様であり、両者の間には文学面だけでなく、藩政の実務を担うという面でも共通点がありました。

黄表紙界をけん引

安永期に恋川春町が「金々先生栄花夢」で黄表紙という分野を開拓すると、春町と共に喜三二は黄表紙界をけん引していきます。

最初は鱗形屋孫兵衛の専属作家的な感じで、多くの作品を鱗形屋から出しています。

朋誠堂喜三二「桃太郎後日噺」 鱗形屋孫兵衛版

その後、鱗形屋がトラブルに見舞われ、出版が困難な状況になると、蔦屋から多くの作品を出すようになります。

朋誠堂喜三二「鐘入七人化粧」 蔦屋重三郎版

文武二道万石通(ぶんぶにどうまんごくどおし)の出版

天明六年(1786年)に田沼意次が失脚し、松平定信による寛政の改革が進行する中、天明八年(1788年)に喜三二は蔦屋から「文武二道万石通」を出しました。鎌倉時代を舞台にしていますが、内容は松平定信の文武奨励策を皮肉った作品となっています。

朋誠堂喜三二「文武二道万石通」 蔦屋重三郎版

世相を巧みに取り入れたこの作品は大ヒットしますが、内容から絶版となります。また、藩主の佐竹公より叱責を受け、以後、戯作からは手を引くことになります。

一方、盟友の恋川春町は寛政元年(1789年)に出版した「鸚鵡返文武二道」(おうむがえしぶんぶのふたみち)により、幕府から呼び出しを受けました。しかし、病気を理由に出頭せず、隠居し、その後、亡くなりました。自殺という説もあります。

寛政の改革は喜三二に大きな影を落とす結果となりました。

黄表紙における門人、芍薬亭長根(しゃくやくてい ながね)

芍薬亭長根は本阿弥光悦七世の孫で、喜三二から号を譲られ、二世喜三二とも称しました。

二代喜三二「聴従浅黄」

手柄岡持(てがらのおかもち)

天明期には狂歌が一大ブームとなりました。天明狂歌の三大家としては、唐衣橘洲(小島橘洲)、四方赤良(太田南畝)、朱楽漢江(山崎景貫)が知られています。喜三二も手柄岡持という狂名で活躍しました。

特に「文武二道万石通」の出版に伴い、戯作を辞めざるを得なかった喜三二は狂歌に力を入れたと言われます。

四方赤良編「老莱子」 蔦屋重三郎版

喜三二の晩年と功績

喜三二の晩年

寛政の改革により盟友、恋川春町や蔦屋重三郎が処罰等、影響を受ける中、喜三二は殿様の佐竹公から叱責はあったものの、幕府からのお咎めはありませんでした。しかし、戯作からは身を引くことになりました。

しかし、寛政期以降、謹慎していたわけではなく、むしろ藩政の重臣としてますます業務に励んでいました。寛政四年(1792年)には幕府から秋田藩に命じられた土木工事の割り当てを、他の重臣と共にやりとげた功で、幕府から錦帛を拝領しています。

この年、次男の為八(平沢常芳)が臨時留守居助役になっています。下記の「寛政武鑑」の佐竹家の項には御城使として、平沢平角と助役の為八の名が見られます。

為八は喜三二が亡くなった後、文政七年(1824年)に用人となり、その子、重蔵(平沢左膳)が留守居助役になっています。喜三二の子や孫も引き続き藩政を担っていたことがわかります。

寛政六年(1794年)、喜三二は女御入内奉賀のため京都に派遣されています。また、享和元年(1801年)、60代半ばを超えても幕府の土木工事の御用を務めています。そして文化二年(1805年)に引退し、名を平沢平角から平荷に改めます。

文化十年(1813年)に70代後半で亡くなります。法名は法性院月成日明居士でお墓は江東区にある日蓮宗の一条院にあります。

喜三二の功績

一世を風靡した文学者であり、また、藩政を担った人物でもある朋誠堂喜三二は文芸と実務の両面において力を発揮した人物です。そして、喜三二の生涯を見ると、これらは密接につながっていたことがわかります。

つまり、藩の外交は吉原等の遊所での付き合いが重要であり、そうした面から、遊所に通じることができ、それが喜三二の文学を形作ったと言えます。先輩である佐藤哲阿弥、盟友である恋川春町との関係も文学と実務両面があったように思います。

これらは喜三二の文学活動として結実したと言えるでしょう。

参考文献

井上隆明「喜三二伝考異」(「近世文藝14」日本近世文学会 昭和43年6月)

蔦屋重三郎: 江戸芸術の演出者

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