江戸には蔦屋をはじめ、多くの版元がありました。その中で、ある意味、蔦屋重三郎と対照的な位置にあったのが須原屋茂兵衛です。ここでは、蔦屋との対比を中心に須原屋茂兵衛について解説します。
須原屋茂兵衛とは
江戸時代に作られた以下のような川柳があります。
吉原は重三 茂兵衛は丸の内
この「重三」というのは蔦屋重三郎のことです。一方、「茂兵衛」というのが、ここで取り扱う須原屋茂兵衛です。
この川柳から両者が対照的に扱われていることがわかります。
総本家としての須原屋茂兵衛
須原屋にはのれん分けをしたいくつかの店舗がありますが、これらの須原屋一統の総本家がこの須原屋茂兵衛です。文政七年(1824年)に出された「江戸買物独案内」の書物問屋の項を見ると、須原屋茂兵衛のほかに須原屋伊八、須原屋佐助、須原屋平助、須原屋源助が載っています。
文政七年刊「江戸買物独案内 」書物問屋の項
この頃には消えていますが、解体新書の発行や、林子平の書物を発行するなど、かなり攻めた内容の出版を行った須原屋市兵衛もこの一統です。
本籍地
須原屋の姓は北圃(北畠)で、出身は現在の和歌山県有田郡湯浅町栖原です。須原屋という名はその出身地から名前を取っています。
北圃(北畠)氏は元々、河内国高安郡垣内村の領主だった垣内氏に仕えていましたが、栖原に移住し帰農したようです。そうした縁から、須原屋の4代目、5代目は垣内氏から出ています。
初代の北畠宗元が17世紀中ごろの万治年間に江戸で書肆を開業したとされています。
須原屋と蔦屋
須原屋と蔦屋の違いをみることで、それぞれの位置がくっきりと見えてきます。
以下、項目ごとに見ていきます。
武鑑と吉原細見
先に以下の句を引用しました。
吉原は重三 茂兵衛は丸の内
これは一般の人が認識していた両者のテリトリーを示しています。
つまり、須原屋茂兵衛は「武鑑」に象徴される丸の内をテリトリーにしていると思われていたのに対し、蔦屋は吉原をテリトリーにしていると思われていたのです。
これは蔦屋重三郎が元々、吉原出身で最初に店を持ったのが吉原だったというだけでなく、吉原の案内本である「吉原細見」を出すなど、吉原関連の出版が目立っていたからです。
武鑑とは
ここで武鑑について簡単に解説しておきます。
武鑑には大名武鑑や旗本武鑑などがあり、それぞれの家の情報が記載されています。名前や石高、官職などはもちろん、用人など家臣なども記載されています。
寛政武鑑 水戸徳川家の部分
役職などが移動することから毎年、新しい版が出版されていました。爆発的に売れるものではありませんが、実務書として一定の需要がある商品でした。
江戸中期以降は須原屋茂兵衛がほぼ独占的に出版していたので、武鑑と言えば須原屋というイメージが定着していました。
吉原細見とは
吉原細見とは吉原遊郭についての案内書で、ある意味吉原の武鑑とも言えるものでした。こちらもいくつかの版元から出されていましたが、鱗形屋孫兵衛の独占状態を経て、その後、蔦屋が独占的に出すようになった商品です。
こちらも実務的な本なので、爆発的に売れるものではありませんでしたが、一定の需要がある情報本であるため、年2回刊行されていました。
天明三年「吉原細見五葉枩」 蔦屋重三郎版
書物問屋と地本問屋
江戸にある本屋は扱っている本の種類によって、書物問屋と地本問屋に分けられていました。このうち、書物問屋の代表と言えるのが須原屋茂兵衛です。一方、典型的な地本問屋と言えるのが蔦屋重三郎でした。
書物問屋とは
この書物問屋が扱っているのが「物の本」と呼ばれる本です。具体的には儒学書、仏教関係の書物、歴史書、医学書などで、いわゆるお堅い内容の本です。武鑑を取り扱い、幕府の御用書肆でもあった須原屋茂兵衛は書物問屋の代表ともいえる存在でした。
上記で図をあげた文政七年刊「江戸買物独案内 」を見ると、須原屋茂兵衛は唐本、和本、仏書、石刻を扱っていることが示されています。
地本問屋とは
一方、地本問屋は草双紙や絵草子など江戸の地で出された本を扱っていました。
山東京伝の黄表紙「御存商売物」には江戸の人々の嗜好に合った「当世本」として、黄表紙、洒落本、読本、錦絵、浮絵、一枚摺、吉原細見等々が挙げられています。
一般の庶民も楽しめるエンターテインメント性があるジャンルの本が並んでいるのがわかります。
老舗と新店
須原屋は江戸前期の万治年間(1658-1661年)に創業したとされる書肆としては江戸でも有数の老舗です。そうしたことから、幕府の御用書肆にもなれたわけです。のれん分けした店を含む須原屋一統が業界内に君臨していたわけです。
一方、蔦屋は重三郎が一代で起業した新興勢力でした。最初は小売りからはじめ、その後、自ら出版を行うようになり、業界内で地位を築いていきました。
そうした点から、業界内で対照的な位置にあったのです。
参考文献
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