小泉忠五郎は浅草の本屋です。蔦屋重三郎と同時期に「吉原細見」を巡って、協力関係にありましたが、一時はライバル関係にあったようです。2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」では芹澤興人が忠五郎役を演じています。
ここでは小泉忠五郎について解説します。
小泉忠五郎とは
「慶長以来書賈集覧」には小泉忠五郎について次のように記載されています。
小泉忠五郎 明和ー天明 江戸浅草田町 吉原細見改所
小泉忠五郎は吉原細見の発行に大きく貢献していたことで知られています。上記のように改所であると同時に、版元となったこともありました。版元というのは出版を行う出版社のようなものですが、改所とは一体、どういう役割を担っていたのでしょうか?
吉原細見の発行と小泉忠五郎
吉原細見について
吉原細見は江戸幕府公認の遊郭である吉原に関するガイドブック的機能を持つ本で江戸時代から明治以降まで発行されました。内容は各妓楼の名称、遊女名、遊女の階級、揚げ代(料金)、地図などが記載されています。
まさに吉原に行く人にとっては必須のガイド本と言えます。詳しくは「吉原細見と蔦屋重三郎」を見てください。
改所としての小泉忠五郎
吉原細見は原則、年二回発行されていました。ここでは、それが読み手に届くまでのシステムについて考えてみます。それは大きく二つに分けられます。
⑴各妓楼の最新の状況(在籍している遊女等の確認)を調べて、発行される吉原細見の内容に反映させるための編集を行い、印刷発行する。
⑵発行された吉原細見を流通販売させる。
この内、⑴の印刷発行をするのが出版社である版元です。そして、情報を確認して編集を行うのが改所の役割だったようです。
吉原細見の最後のページにある奥付には板元と並んで、この改所が記載されていることがありますが、そこに小泉忠五郎の名前が記載されている版もあります。
吉原細見の流通機構と浅草
浜田啓介は吉原細見が作られ始めた創生期である享保期では「流通経路が細見特有の経路として確立していなかった」のに対し、鱗形屋版になると浅草の本屋がそれに加わるようになっていると述べています。
その浅草の本屋として、浅草田町の小泉忠五郎と浅草御寺内の本屋吉十郎を挙げています。彼らは「改士売所」として記載されています。これに新吉原新町の本屋幸七を加えたメンバーで鱗形屋は発行を続けました。
一方、一時、吉原細見を巡って鱗形屋とライバル関係にあった山本九左衛門版では「此細見改致し売所」として、廓内商人と浅草御寺内本屋平助が連名で記載されています。
以上のことから「延享寛延頃より、新吉原細見は、廓外の板元と、吉原廓内及び浅草地域の編輯販売元」からなる流通機構が成立するとしています。
つまり、大雑把に言うと、版元+遊郭内の本屋+浅草の本屋というコンビで印刷発行と流通販売を行っていたようです。
なぜ、浅草の本屋が関係していたかというと、吉原遊郭は浅草の浅草寺の北、約1キロほどのところにありました。ですから、浅草は吉原への玄関口にあり、そこで吉原細見の販売も行っていたからです。
また、吉原細見は吉原の茶店や小間物屋などでも販売されていたようで、この「改士売所」として奥付に載っている浅草の小泉忠五郎と本屋吉十郎はその卸売りもしていたようです。
この版元+遊郭内の本屋+浅草の本屋というコンビからなる流通機構は吉原細見だけではなく、評判記など廓関係の出版物の流通経路となっていました。
版元としての小泉忠五郎
吉原細見は様々な版元から出されていましたが、その後、鱗形屋孫兵衛と山本久左衛門の二軒が販売するようになりました。しかし、山本久左衛門が撤退し、宝暦八年(1758年)からは鱗形屋孫兵衛の独占的販売状態となります。
但し、明和七年(1770年)と八年(1771年)には小泉忠五郎が版元となり吉原細見を出しています。
「鱗形屋孫兵衛」でも述べたように、その鱗形屋孫兵衛が安永四年(1775年)に鱗形屋の手代によるトラブルで吉原細見を出版できなくなります。そうした中、吉原細見の小売りをしていた蔦屋重三郎が版元として吉原細見の販売に乗り出します。
同時に鱗形屋孫兵衛の改所であった小泉忠五郎も版元として販売に乗り出します。
鱗形屋孫兵衛がビジネス上のトラブルに遭う中、吉原細見の販売戦争が始まったわけです。
小泉忠五郎と蔦屋重三郎
翌年から鱗形屋も販売を再開しましたが、版元争いは結局、蔦屋に軍配が上がりました。蔦屋の出す吉原細見が読者の需要にマッチしていたからのようです。
こうして蔦屋が吉原細見の版元として独占状態になりますが、小泉忠五郎はその改所として蔦屋と組んで、引き続き細見の制作、販売を担っています。
小泉忠五郎は夢破れて(?)吉原細見の版元として継続はできませんでしたが、力量をもっていたので、引き続き改所として力を発揮していたのだと思われます。
小泉忠五郎と吉原遊郭
小泉忠五郎は鱗形屋孫兵衛とそれに続く蔦屋重三郎時代を通じて、吉原細見の改所として活躍していたわけですが、そのためには吉原に深く通じている必要があります。浅草という吉原の玄関口にあたる場所に本屋として居を構えているという以外に、何か理由があるのでしょうか?
以下の図を見てください。
これは宝暦十二年(1762年)の鱗形屋から出された「吉原細見道中巣子陸」の最終頁です。これを見ると小泉忠五郎が「新吉原本屋」、伊勢屋吉十郎が「浅草御寺内」となっています。この頃、小泉忠五郎は吉原の本屋だったようです。そうであるなら、吉原に通じているのもわかります。
その後の小泉忠五郎
蔦屋重三郎は寛政九年(1797年)に脚気で亡くなります。蔦重が一代で築き上げた蔦屋は、その後、番頭の勇助が二代目蔦屋重三郎として継いでいくことになります。
以下の図は文政八年(1825年)の吉原細見ですが、これを見てみると2代目以降も引き続き版元:蔦屋重三郎ー改所:小泉忠五郎という体制で発行していることがわかります。
この小泉忠五郎も蔦重と同じく、代替わりしていると思われます。
参考文献
浜田啓介「小冊子の板行に関する場所的考察」
山城由紀子「『吉原細見』の研究」 駒沢史学24
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