才覚あふれる版元であった蔦屋重三郎は生まれ育った吉原で起業した後、大手の版元が並ぶ日本橋へと進出します。
日本橋の通油町(とおりあぶら)への進出はまだまだ駆け出しの若手経営者に過ぎなかった重三郎が版元として江戸でのし上がっていくための試練の場所でした。
ここでは、日本橋に進出した重三郎の軌跡を追います。
日本橋への進出=一流の版元への道
重三郎は吉原から日本橋通油町へと進出します。それにはどんな意味があったのでしょうか?
日本橋通油町への進出
参考:江戸時代の日本橋の風景
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-7332?locale=ja)
当時、出版業が確立していた江戸ではいくつかの大手の版元(出版社)がありました。その多くが日本橋に店を構えてました。つまり、日本橋は版元のメッカだったわけです。ここに店を構えること、それは蔦屋が一流の版元と認められるためには必須の条件だったと思われます。
今風に言えば、地元で下請け、あるいはフランチャイズとして起業した人が、それを脱却して自身がその分野で一流となるために本場である都心部に進出していくような感じです。
しかし、吉原の店は閉めたわけではなく、こちらでの営業も続けていたようです。本店を日本橋に移して、吉原の店は支店になったのでしょうね。
書物問屋と地本問屋
さて、江戸の版元は扱う本の種類によって大きく二つに分けることができます。それは書物問屋と地本問屋です。
書物問屋
書物問屋とは、当時の中心的な学問であった儒学を学ぶための儒学書、仏教関係の書物、歴史に関する歴史書、医学書などを扱っています。まあ、簡単に言うと小難しい内容の硬い本です。
地本問屋
それに対して、地本問屋は草双紙や絵草子など、庶民に愛された江戸で出版された軽い内容の本を扱っています。今風に言うと漫画やライトノベル…といった感じでしょうか。
蔦屋が扱っていたのは、この江戸で出版された地本と呼ばれる分野です。書物問屋が扱うような伝統的な書物ではなく、当時の世相、人々の好みに敏感に反応できた重三郎にとって、地本はまさに打ってつけの分野だったと言えそうです。
作家、浮世絵師との関係
出版業者に必要なのは売れる本を書いてくれる作家と絵師です。駆け出しの版元である重三郎にとって、これらの人々をいかに確保するかは生命線とも言えます。
重三郎が躍進できた理由の一つは間違いなくその人的なネットワークだったと言えます。蔦屋重三郎の吉原時代でも少し述べましたが、重三郎は鱗形屋の系列という利点を生かして、当時、大御所作家だった朋誠堂喜三二や浮世絵界の重鎮である北尾重政などの作品を出版することに成功しています。
こうした大御所と同時に才気ある新進作家や絵師を発掘していくことも必要です。こうした新しい才能の発掘において、大御所からの紹介も大きかったと考えられています。例えば、浮世絵師、北尾重政の弟子である北尾政演(まさのぶ)などがいます。彼は後のベストセラー作家、山東京伝です。
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