大文字屋市兵衛

狂歌師

吉原の妓楼、大文字屋の楼主であり、2代目は狂歌師として名を成すなど、ユニークな存在であった大文字屋市兵衛。

2025年の大河ドラマ「べらぼう」では伊藤淳史が演じています。

蔦屋とも懇意にしていた大文字屋市兵衛について紹介します。

大文字屋市兵衛とは

吉原細見から見る大文字屋

下記の図は吉原細見(吉原遊郭のガイドブック)に載っている大文字屋の部分です。

吉原細見 安永四年(1775年)

吉原細見五葉枩 天明三年(1783年) 蔦屋重三郎版

初代大文字屋市兵衛

享保初年?-安永九年(1780年)

伊勢出身の村田市兵衛は江戸の吉原で大文字屋という妓楼を開きます。最初は河岸見世で村田屋市兵衛として、その後、京町に進出し大文字屋となります。

嘉永五年(1852年)に出版された石塚豊芥子の「近世商賈盡狂歌合」(きんせいあきないづくしきょうかあわせ)には大文字屋について、以下のような記載があります。

ここに京町大もんしやの
かぼちやとて
その名は
市兵衛と申ます せいか
ひくゝて ほんに
猿まなこ
よいわいな よいわいな

これは宝暦の初年に流行っていた唄で、この唄と市兵衛の肖像を描いた一枚摺りが売られていたようです。かぼちゃというあだ名で、背が低く、猿のような丸い目を持つ市兵衛は、自らかぼちゃと名乗り、踊っていた愉快な人物だったようです。

そもそもは揚屋河岸時代に、親分と仲が悪くなり、その後、京町に進出したため、地回りの手下が、大文字屋の門口であざ笑って唄ったもののようです。それを逆手にとって、自らをブランディングしたとも言えそうです。

カボチャと言われた理由として、頭がカボチャに似ていたという風体から名付けられたという説以外に、まだ河岸(切見世と言われた吉原の低級な遊女屋)にいた頃、お抱えの遊女の食事にカボチャを多用し、お金を浮かせて、それで京町に進出したというケチさから名付けられたという逸話もあります。

ところで、妓楼主は忘八(ぼうはち)とも呼ばれていました。これは仁・義・礼・智・忠・信・考・悌の8つの徳目を忘れた人という意味で、廓通いをしている者などをそう呼んでましたが、その後、妓楼主を指すようにもなりました。遊女たちを搾取し、妓楼で客から大金をむしり取るイメージがあったのかもしれません。

そうしたイメージとユニークな姿で踊るカボチャと言われた大文字屋の間にはギャップがあって面白いですね。ですが、これによって大文字屋に来る遊客も増えたようで、なかなかのやり手だったのかもしれません。

また、初代は園芸好きだったという一面もありました。

初代は安永九年に亡くなります。法号は釋佛妙加保信士です。この位牌を見た太田南畝はおかしかったようで、それを書いています。きっと、吹き出しそうになったんではないでしょうか。死してなお、カボチャというのも愉快ですね。

二代目大文字屋市兵衛(加保茶元成=かぼちゃのもとなり)

宝暦四年(1754年)-文政十一年(1828年)

二代目を継いだのは姉の子であった岡本長兵衛の次男で養子となりました。そして、文楼と号しました。二代目は狂歌の分野で才能を発揮し、初代のあだ名から、狂名を加保茶元成と名乗りました。

天明狂歌という言葉があるように天明期は狂歌が爆発的なブームとなりました。狂歌師たちは、○○連という名でそれぞれグループを作りました。

このうち、吉原連を主催したのが、加保茶元成でした。蔦唐丸(つたのからまる)こと蔦屋重三郎も吉原連に属しました。

二代目は古銭にも造詣が深く、寛政四年の古銭家番付では東の小結となっています。また、「対泉譜」(ついせんふ)という本も出しています。

加保茶元成、大村成富撰 「対泉譜 」

出典:東京国立博物館(東京国立博物館デジタルライブラリー / 対泉譜 : (tnm.jp)

三代目大文字屋市兵衛(加保茶宗園、加保茶元成二世)

安永六年(1777年) – 弘化三年(1846年)

金山卜斎の子として生まれ、二代目大文字屋市兵衛の次女に婿入りして養子となり、三代目を継ぎました。狂歌においても、加保茶元成を継いで、加保茶元成二世となりました。

他にも文芸等で多彩な才能を示しており、酒井抱一に浮世絵を学び、浮世絵師としても活躍しました。

法名は南瓜宗園禅徳。やはりカボチャへのこだわりがありますね。

参考文献

忍頂寺務「加保茶と『柳巷名物誌』」 延寿清話 : 大江戸之研究 第4冊

三村清三郎「本のはなし」

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