2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」で福原遥が演じているのが大文字屋の花魁(おいらん)である誰袖(たがそで)です。
この誰袖は当時、実在していた人物です。ここでは誰袖について見ていきます。
大文字屋の誰袖(たがそで)とは
吉原の妓楼の一つ、大文字屋には多くの遊女がいましたが、その中の一人が誰袖(たがそで)です。誰袖は吉原の高級遊女である花魁(おいらん)でした。ただ吉原の源氏名は代々、受け継がれることも多く、例えば有名な高尾太夫などは何代にもわたって襲名されていたようです。
ですから、同じ妓楼で同じ源氏名だったとしても同一人物とは限りません。
吉原細見から消えた誰袖!?
吉原には「吉原細見」と呼ばれるガイドブックとしての機能を持つ本が出版されていました。これは毎年発行されています。
後述のように福原遥が演じる誰袖は天明四年(1784年)に土山宗次郎によって身請けされました。ですから、その少し前に出版されている「吉原細見」に出ている大文字屋の誰袖は、この土山宗次郎によって身請けされた誰袖だと言えるでしょう。
吉原細見五葉枩 天明三年正月発行
では、身請けの前年である天明三年に発行された吉原細見を見てみます。
上記の「吉原細見五葉枩」天明三年正月版は改所:小泉忠五郎、版元:蔦屋重三郎で出版されています。この中で大文字屋を探してみると…
ありました!一番右の上側「大もんしや」、その下に「大もんしや市兵衛」と楼主の名前が記載されています。
そして真ん中の赤で囲んだ箇所に「たがそで」と書かれています。それぞれの遊女の名前の上には印がありますが、これは遊女の格を示しています。「たがそで」の横には「よび出し」と書かれています。
当時、吉原の高級遊女である花魁の中でも、呼び出しは最も格が高い花魁でした。まさに大文字屋の看板と言える位置にあったことがわかります。
吉原細見五葉枩 天明四年正月発行
では、次に翌年の天明四年(1784年)の正月に発行された吉原細見を見てみましょう。
なんと、昨年、たがそでが記載されていた場所が不自然に消えてます。この発行時点で、身請け→引退の話が決まっていたのでしょうか?興味深いところです。
狂歌遊女
天明から寛政にかけて江戸では狂歌が大ブームとなります。その最初期に当たる天明三年の正月に出された狂歌集に万載狂歌集があります。編者は狂歌界をリードする四方赤良と朱楽菅江でした。この書の恋の部には誰袖の狂歌が収録されています。
わすれんとかねて祈りし紙入れの などさらさらに人の恋しき
誰袖に狂歌の心得があったことがわかります。
土山宗次郎による身請けとその死
大文字屋の誰袖は天明四年に旗本の土山宗次郎によって1200両という大金で身請けされました。これは、当時、江戸でも話題に上ったようです。
土山宗次郎は元々は御家人でしたが、旗本になり、田沼意次の下で勘定組頭を務めていました。田沼派としてなかなか優秀な人物だったと思われます。しかし、田沼の失脚に伴い、横領が発覚し、逃亡します。
平秩東作がかくまっていましたが、結局、見つかり、天明七年に斬首されました。身請けから3年ほどでこうした結末となりました。
その後、誰袖がどうなったかはわかりません。
大文字屋にいた別の時期の誰袖
吉原細見 寛政七年(1795年)正月発行
天明四年に「たがそで」が身請けされてから、約10年後の1795年に発行された吉原細見の大文字屋を見ると、その時代にも「ただそで」と呼ばれた花魁がいたことがわかります。
「たがそで」は大文字屋の名跡として受け継がれていたのでしょうか?
江戸狂歌の大型摺物にみられる誰袖
寛政8-10年頃(1796年ー1798年)に作られた北斎画による大型摺物は大文字屋の遊女との合作で、ひともと、もとつえ、誰袖の3人の遊女が狂歌を寄せています。その頃、大文字屋にいた「誰袖」も狂歌に親しんでいたことがわかります。
大文字屋以外の誰袖
さて、吉原において誰袖という源氏名は江戸時代を通じて、大文字屋以外にもいました。例えば、以下のような誰袖がいました。
尾州楼 誰袖
参考文献
小林ふみ子「江戸狂歌の大型摺物一覧(未定稿)」
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