競争の激しい出版業界で生き残っていくには、売れる本を出版することが重要です。
日本橋に進出した蔦屋が弱小版元から業界有数の版元に躍り出ることができたのは、やはりベストセラーと言えるような売れる本を出せたからです。
ここでは、その要因を探っていきます。
蔦重がベストセラーを生み出せた理由
蔦屋重三郎がベストセラーを生み出すことができたのは、以下の2つを備えていたからです。
⑴江戸で生きる人々のニーズを掴めていたこと。
⑵
競争の激しい出版業界で生き残っていくには、売れる本を出版することが重要です。
日本橋に進出した蔦屋が弱小版元から業界有数の版元に躍り出ることができたのは、やはりベストセラーと言えるような売れる本を出せたからです。
ここでは、その要因を探っていきます。
蔦重がベストセラーを生み出せた理由
蔦屋重三郎がベストセラーを生み出すことができたのは、以下の2つを備えていたからです。
⑴江戸で生きる人々のニーズを掴めていたこと。
⑵そのニーズを満たす作家や絵師と組むことができたこと。
これらについて、それぞれ解説します。
ニーズをつかむ天才 蔦重
重三郎が時代の寵児となれたのは、ニーズをつかむ天才的な能力を持っていたからです。
これは起業家に最も重要な能力と言えるかもしれません。
そのニーズについてみる前に、その前提である江戸の文化的状況について見てみます。
江戸文化と上方文化
江戸は徳川家康が来るまでは、未開の土地であり、特に家康が天下人になってから、本格的に栄えていきます。
つまり、江戸というのは、政治に特化した典型的な新興都市だったわけです。
そのため初期の頃は文化面はまだまだ育っていないのが実情でした。
では、文化的な需要はどう満たしていたのかというと、歴史のある京都や大阪など、上方の文化を輸入していました。
上方では17世紀後半から18世紀前半にかけて町人文化の発展で特徴づけられる元禄文化が栄えました。
その代表として、浮世草子、人形浄瑠璃の作家であった井原西鶴、近松門左衛門、俳諧の松尾芭蕉などが挙げられます。
江戸は文化的には上方の植民地だった…などという人もいます。
しかし、時代が進むとともにそうした状況も変わってきます。
江戸のオリジナル文化の誕生
上方を中心とした江戸前期の元禄文化に対して、江戸後期には江戸で化政文化が栄えました。
この二つが江戸の二大文化として知られていますが、最近ではその中間に位置する江戸中後期の宝暦・天明文化が注目されています。
この宝暦・天明文化は上方と江戸で共に独自の文化が発展しました。
つまり、この時期は江戸で本格的にオリジナルの文化が出てきた時期と言えます。
文芸の分野では作家として山東京伝・恋川春町・大田南畝などが活躍し、洒落本・黄表紙・狂歌などが江戸で流行しました。
また、浮世絵が隆盛を極め、鈴木春信をはじめ、役者絵の勝川春章、美人画の鳥居清長、喜多川歌麿、それに謎の絵師、東洲斎写楽などを輩出しました。
こうした江戸の文化の勃興に大きな力を発揮したのが蔦屋重三郎だったのです。
重三郎のマーケティング能力
重三郎に起業家としての資質があったのは間違いありません。
敏感に時代の雰囲気を読み、売れる商品を販売していく能力、今風に言えばマーケティング力と言えます。
これが重三郎の大きな強みだったと言えます。
そうした能力の源泉は生まれ育った吉原で身に着けたものも多かったのではないでしょうか。
遊郭として著名な吉原は様々な人間が交錯し、文化が発信される場所でもあったからです。
これらについて、それぞれ解説します。
ニーズをつかむ天才 蔦重
重三郎が時代の寵児となれたのは、ニーズをつかむ天才的な能力を持っていたからです。
これは起業家に最も重要な能力と言えるかもしれません。
そのニーズについてみる前に、その前提である江戸の文化的状況について見てみます。
江戸文化と上方文化
江戸は徳川家康が来るまでは、未開の土地であり、特に家康が天下人になってから、本格的に栄えていきます。
つまり、江戸というのは、政治に特化した典型的な新興都市だったわけです。
そのため初期の頃は文化面はまだまだ育っていないのが実情でした。
では、文化的な需要はどう満たしていたのかというと、歴史のある京都や大阪など、上方の文化を輸入していました。
上方では17世紀後半から18世紀前半にかけて町人文化の発展で特徴づけられる元禄文化が栄えました。
その代表として、浮世草子、人形浄瑠璃の作家であった井原西鶴、近松門左衛門、俳諧の松尾芭蕉などが挙げられます。
江戸は文化的には上方の植民地だった…などという人もいます。
しかし、時代が進むとともにそうした状況も変わってきます。
江戸のオリジナル文化の誕生
上方を中心とした江戸前期の元禄文化に対して、江戸後期には江戸で化政文化が栄えました。
この二つが江戸の二大文化として知られていますが、最近ではその中間に位置する江戸中後期の宝暦・天明文化が注目されています。
この宝暦・天明文化は上方と江戸で共に独自の文化が発展しました。
つまり、この時期は江戸で本格的にオリジナルの文化が出てきた時期と言えます。
文芸の分野では作家として山東京伝・恋川春町・大田南畝などが活躍し、洒落本・黄表紙・狂歌などが江戸で流行しました。
また、浮世絵が隆盛を極め、鈴木春信をはじめ、役者絵の勝川春章、美人画の鳥居清長、喜多川歌麿、それに謎の絵師、東洲斎写楽などを輩出しました。
こうした江戸の文化の勃興に大きな力を発揮したのが蔦屋重三郎だったのです。
重三郎のマーケティング能力
重三郎に起業家としての資質があったのは間違いありません。
敏感に時代の雰囲気を読み、売れる商品を販売していく能力、今風に言えばマーケティング力と言えます。
これが重三郎の大きな強みだったと言えます。
そうした能力の源泉は生まれ育った吉原で身に着けたものも多かったのではないでしょうか。
遊郭として著名な吉原は様々な人間が交錯し、文化が発信される場所でもあったからです。
蔦重のネットワーク
重三郎が躍進できたもう一つの理由は、人々のニーズを満たす作家や絵師と組むことができたことです。
それが出来たのは彼のネットワーク力であったと言えるでしょう。
ネットワークを持つと同時に、それを維持発展させてきたことが重要だったと思います。
起業初期からの大御所との関係
重三郎は吉原で起業した当初、鱗形屋の系列という位置にありましたが、その後、その利点を生かして、当時、既に戯作者として名をなしていた朋誠堂喜三二や浮世絵界の重鎮、北尾重政などの作品を出版することに成功しています。
蔦屋重三郎の日本橋進出でも述べましたが、こうした大御所たちの紹介で、新進の作家や浮世絵師とも知り合ったと思われます。その中には北尾重政の弟子である北尾政演(まさのぶ)などもいて、彼は後に戯作者である山東京伝として知られるようになります。
こうした初期の人的ネットワークを徐々に発展させていったと思われます。
文化人としてのネットワーク
蔦屋は版元として、ベストセラーを輩出するようになります。その背景には戯作者や浮世絵師をはじめ、様々な文化人との交流関係がありました。
天明期には江戸で狂歌が大流行しましたが、重三郎自身も蔦唐丸(つたのからまる)という名で活動しました。こうして自らも文化人として活動する中で、ネットワークを構築していたと思われます。その際には社交の場であった吉原に詳しい重三郎は利点を持っていたと言えるでしょう。
重三郎は前述の朋誠堂喜三二のほか、大田南畝、朱楽菅江、恋川春町、森島中良など多くの著名な戯作者と交流しました。
また、浮世絵師、喜多川歌麿、栄松斎長喜、東洲斎写楽などを世に出したほか、鳥居清長、渓斎英泉、歌川広重ら、浮世絵史を彩る多くの人々の作品を扱いました。
これらの作家たちは、この時代を代表する文化人でもありました。
終わりに
以上述べてきたように、蔦屋重三郎がベストセラーを生み出すことができたのは、マーケティング力とネットワーク力を培ったことにあると言えます。
これらは現代の起業家にとっても非常に参考になると思います。
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