謎の浮世絵師と言われる東洲斎写楽。その最も写楽らしい絵が役者大首絵です。その代表作の一つが、この「市川鰕蔵の竹村定之進」です。どこかで見たことがあるという方も多いでしょう。
この作品は歌舞伎役者、市川鰕蔵が竹村定之進の役を演じているシーンです。以下、この作品について解説していきます。
写楽の代表作 市川鰕蔵(えびぞう)の竹村定之進(さだのしん)
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-470?locale=ja)
写楽デビューの第一期作品
東洲斎写楽の版画作品の活動期間は寛政六年(1794年)五月のデビューからわずか10か月と非常に短いことが知られています。その期間の間に怒涛の如く146もの作品を刊行し、そのまま消えていきました。
写楽作品は発表した時期によって四つの時期に分けられていますが、この「市川鰕蔵の竹村定之進」は第一期、つまり28の役者大首絵が発表されたデビュー作品の一つです。
デビュー作品から豪華な大判雲母摺の手法が用いられていて、写楽の芸術性においても最も輝いていたのがこの第一期の作品の特徴です。
「市川鰕蔵の竹村定之進」もこの第一期を代表する作品の一つと言えます。
市川鰕蔵の竹村定之進とは
写楽の作品は歌舞伎役者を描いた役者絵が有名です。特にその代表作の多くが含まれる第一期のデビュー時の作品はすべて役者の大首絵から成っています。「市川鰕蔵の竹村定之進」もその一つですが、この絵の題材は寛政六年五月五日が初演の河原崎座での「恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたづな)」から取られています。
竹村定之進(さだのしん)とは
では、「恋女房染分手綱(こいにょうぼうそめわけたづな)」の中で竹村定之進はどんな役柄なのでしょうか。まずは簡単にあらすじを説明します。
丹波の城主、由留木(ゆるぎ)家に「重の井(しげのい)」という女性が腰元として仕えていました。この重の井と、家老である伊達与三兵衛の息子与作が恋中になってしまい、不義の子である与之助が生まれます。このことがバレないように、子供は乳母に育てさせます。
しかし、伊達与作は公金を奪われるという失態を犯し、また重の井との不義もバレてしまい、お家を追放されてしまいます。因みに、その公金を奪ったのが奴江戸兵衛です。
お家の禁を破った重の井は手討ちにされることになりますが、重の井の父で能楽師であった竹村定之進が娘の助命のため、責任を負って切腹したことで重の井は助かります。
その後、重の井は由留木家の調姫(しらべひめ)の乳母となり、話が続いていきます。
以上のように能楽師竹村定之進というのは娘、重の井のために責任を負って切腹する父親という役柄です。この竹村定之進役を演じているのが市川蝦蔵です。
市川鰕蔵(いちかわ えびぞう)について
「いちかわ えびぞう」と聞くと、この前まで市川海老蔵を名乗っていた歌舞伎役者、市川團十郎を思い浮かべる方も多いと思います。この團十郎は13代目ということになります。
写楽の描いた市川鰕蔵は五代目の市川團十郎です。江戸中期、寛保元年(1741年)に生まれ、文化三年(1806年)に亡くなりました。父の四代目團十郎から五代目を襲名した後、寛政三年(1791年)に市川鰕蔵を襲名しました。
写楽が描いたのは、市川鰕蔵襲名から2年半後ぐらいの時期です。父親は三代目市川海老蔵を名乗りましたが、「おれはえびはえびでも雑魚えびの蝦」と述べ、海老蔵ではなく、鰕蔵と名乗りました。
屋号は成田屋で定紋は三枡です。絵の中で竹村定之進が来ている服には三枡紋が入っています。
この市川鰕蔵(五代目市川團十郎)は「花道のつらね」という名で狂歌師としても知られています。狂歌師グループである堺町連を率いました。
市川鰕蔵の竹村定之進の評価
江戸歌舞伎界を支えた名優として知られている市川鰕蔵を描いたこの作品について、所蔵している東京国立博物館は次のように解説しています。
この時期を代表するスケールの大きな役者の特徴が風格をもって描き出されています。
顔のしわ、表情による顔の風貌により、写楽流の方法で名人の風格、芸格が見事に表現されています。また、配色のコントラストも定評があります。
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