平賀源内は江戸時代、その奇才を発揮し、枠にとらわれない様々な業績を残した人物として知られています。2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」では安田 顕が源内の役を演じています。
ここでは、平賀源内に焦点を当てて説明していきます。
平賀源内とは
文系、理系を問わず、いろんな分野でマルチな才能を発揮した平賀源内。それだけに、全体を掴むのはなかなか難しい人物でもあります。まずは、生い立ちと経歴について見てみます。
平賀源内の生い立ちと経歴
平賀源内は享保13年(1728年)に讃岐国、現在の香川県さぬき市に生まれました。源内もしくは元内は通称で、諱は国倫(くにとも)または国棟(くにむね)、字は子彝(しい)です。鳩渓(画号)、李山(俳号)、風来山人(戯作)、福内鬼外(浄瑠璃)、天竺浪人(殖産事業)など様々な名を名乗りました。また、お金に困っているときは貧家銭内(ひんかぜにない)とも名乗ってました。
父親は白石茂左衛門で、源内は白石家の三男です。白石家は高松松平家に足軽として仕えていました。
源内の代の時、信濃源氏小笠原流の庶流に当たる大井氏流平賀氏の子孫であると称し、白石姓から平賀姓に変えました。
11歳の時にからくり掛軸「おみき天神」を作るなど、若いころから才を発揮し、藩医のもとで本草学、また、儒学や俳諧なども嗜んでいました。
寛延二年(1749年)、父が亡くなり、高松藩志度御蔵番(一人扶持、切米三石)に就きます。渡辺桃源ら志度の俳諧仲間と俳句を楽しみました。当時の俳号は李山です。
鎖国時代の当時、知を欲する人々は長崎への遊学を夢見ていましたが、源内も宝暦2年(1752年)頃に1年間長崎への遊学が実現します。各藩の優秀な人材が集まったとされる長崎遊学ができたこと自体、藩も源内に期待していたのだと思われます。長崎では、本草学、オランダ語、医学、油絵などを学びました。
宝暦三年(1753年)、長崎遊学からの帰りに、備後鞆の津(現在の広島県福山市)で陶土を見つけ、陶器造りを伝授しました。
しかし、遊学から戻った源内は宝暦四年(1754年)26才の時、藩務を退き、家督を妹、里与の婿養子である権太夫に譲ります。そして、讃岐を飛び出し、京、大阪、江戸へと赴き学び続けます。
江戸では宝暦六年(1756年)に医師で本草学者の田村藍水の門下となり、本草学を学びました。また、幕府の儒学の総本山ともいえる林家にも学び、湯島聖堂に身を寄せます。
宝暦九年(1759年)に再び高松藩で雇われることになりますが、宝暦十一年(1761年)に江戸に戻るために藩務を辞職します。これにより、高松藩から仕官お構いという厳しい処分を受けます。これは、ただの追放以上に厳しい処分で、どこの藩にも雇ってもらえないことになるものです。
以上の点から見ても、平賀源内という人物は封建時代において、高松藩の家臣として勤務することにほとんど価値、興味を持たない自由な思考を持った人物だったと思われます。自らの興味のおもむくまま、様々なことにチャレンジしていったわけです。
平賀源内の代表的な業績
平賀源内は興味を持ったことに、いろいろと挑戦し、数々の発明等、様々な業績を上げました。ここでは、代表的な業績をピックアップしています。
エレキテルの模造製作の成功
静電気の発生装置であるエレキテルはオランダで発明されました。安永五年(1776年)平賀源内は故障していたエレキテルを入手し、それを復元し、模造製作しました。ただ、源内自身、エレキテルの原理的仕組みは理解していなかったようです。
えれきてるの図 森島中良 編「紅毛雑話 」5巻
燃えない布、火浣布(カカンプ)の製作
火浣布とは石綿、いわゆるアスベストで織った不燃性の布です。繊維状の鉱石なので、火に強いわけです。近年、アスベストは健康被害をもたらすことがわかり利用されなくなりましたが、それまでは様々な用途で利用されていました。
平賀源内は明和元年(1764年)に秩父中津川山中で発見した石綿を使って、火浣布を作り幕府に献上しました。
平賀源内作『火浣布』(京都大学附属図書館所蔵)
翌明和二年(1765年)には須原屋市兵衛他から「火浣布略説」を出版しました。
温度計、万歩計、方位計、水平器などの製作
平賀源内は明和五年(1768年)に温度計である「日本創製寒熱昇降器」を製作しました。モノ自体は現存していませんが、『日本創製 寒熱昇降記 平賀国倫撰』に図があります。
このほか、今の万歩計に当たる量程器や方位を測る磁針器、水平を出す平線儀なども作っています。
本草学ー博物学
源内は医者で本草学者、田村藍水の門下生となっています。藍水は朝鮮人参の研究で知られています。源内は藍水と共に湯島で薬品会を開いています。
そうした中で、「物類品隲」(ぶっさんひんとう)という物産解説書を出版しています。
鉱山開発
平賀源内は鉱山開発事業にも携わっています。
明和三年(1766年)には武蔵国、川越藩主、秋元凉朝に招かれて、奥秩父中津川の鉱山開発を行っています。安永初年には同じく中津川で鉄山事業、その後、秋田でも鉱山開発を行っています。しかし、源内の鉱山事業は成功しませんでした。
からくり掛け軸「御神酒天神]
源内は11歳の時に、からくり掛け軸「御神酒天神]を作りました。これは酒を飲んだ天神様の顔が赤くなるというからくり細工です。幼少のころから既に、発明、細工物に興味があったことがうかがわれます。
公益財団法人平賀源内先生顕彰会から、からくり掛け軸「御神酒天神]工作キットが売られています。
油絵の習得と秋田蘭画の誕生
油絵の技法を学んだ源内は「西洋婦人図」などの作品を残しています。絵画自体は余技程度だったようですが、鉱山技術者として招聘された秋田藩(久保田藩)で小田野直武に西洋画の技法を教え、これが秋田蘭画の誕生につながりました。
小野田直武は解体新書の挿絵を描いたことでも知られています。
源内焼の指導
前述のように源内は長崎遊学からの帰りに、備後鞆の津で陶土を見つけ、溝川家に対し陶器造りを伝えましたが、溝川家では陶器造りは行いませんでした。しかし、鍛冶用の炉である火床や壁土の原料として陶土を販売していたようです。
その後、宝暦五年(1755年)に地元、讃岐の志度やその周辺で源内の技術指導により源内焼が始まったとされます。その特徴は三彩の軟質陶器にあります。
下記の作品のように、世界や日本の地図や西洋風の斬新な意匠などが見られる作品もあります。
褐釉アメリカ地図皿 源内焼
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/G-1478?locale=ja)
土用の丑の日にウナギを食べる風習を考案
土用の丑の日はウナギが売れない時期でしたが、うなぎ屋から良い案はないかと相談された平賀源内は丑の日に「う」のつく食べ物を食べるとよいという風習からヒントを得て、ウナギ屋に「本日、土用丑の日」と店頭に掲げさせました。すると、これが大ヒットし、大繁盛につながったという説があります。
この土用の丑の日にウナギを食べる習慣はエレキテルと並んで源内の代表的な功績に数えられていますが、現状、明確な資料がないので、本当かどうか不明というのが実情です。
商品の宣伝 コピーライターの走り
上記のうなぎ屋の宣伝に見られるように、平賀源内は商品の宣伝にも能力を発揮しています。
明和六年(1769年)には歯磨き粉である『漱石膏』の作詞作曲をしています。また、安永四年(1775年)には音羽屋多吉の清水餅を売るための広告にコピーライターとして寄与しています。
浄瑠璃作家
人形浄瑠璃の作家としては近松門左衛門が有名ですが、実は平賀源内も福内鬼外という名で浄瑠璃を書いています。代表作としては「神霊矢口渡」(しんれいやぐちのわたし)が知られています。この作品は歌舞伎でも演じられています。
以下は「神霊矢口渡」に取材した写楽の作品です。
三代目市川高麗蔵の南瀬六郎 東洲斎写楽 ※重要美術品
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-503?locale=ja)
戯作
平賀源内は風来山人の名で戯作も書いています。作品としては「根南志具佐」「風流志道軒伝」「風来六部集」「長枕褥合戦」などがあります。
「放屁論」 『風来六部集』所収 風来山人
「長枕褥合戦」(ながまくらしとねかっせん) 風来山人
若侍と御殿女中が百人づつ交わり、強精薬のため、淫水を調達するという内容の好色本です。
男色細見 菊の園 水虎散人(平賀源内)
平賀源内は同性愛者として知られ、妻はいませんでした。吉原遊郭の案内書である「吉原細見」の男色版である「男色細見 菊の園」などを水虎散人の名で出版しています。
平賀源内の死
奇才を発揮した源内ですが、その死もまた驚くものでした。安永八年(1779年)、52歳の時、大工の秋田屋九五郎を殺害したことで投獄され、獄死しました。直接の死去の原因は破傷風だったようです。殺害に至った動機は大名屋敷の修理計画書を盗まれたと勘違いした、あるいは男色が原因などとも言われています。
いずれにしろ、畳の上で安らかに亡くなったわけではなく、これほどの著名人が異常な死を迎えたと言えます。
解体新書を翻訳した有名な蘭学者、杉田玄白は「蘭学事始」で源内との対話に1章を設けています。
その玄白が葬儀を行いました。そして、その死について、次のように述べています。
平賀源内 碑銘(杉田玄白 撰文)「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常 」
これは次のような意味です
ああ非常の人、非常の事を好み、行ひこれ非常、何ぞ非常に死するや
ああ、何と変わった人よ、好みも行いも常識を超えていた。どうして死に様まで非常だったのか
まさに同時代に生きた人々の思いだったのではないでしょうか。
因みに平賀源内生存説というものあり、田沼意次や高松藩に匿われて生き延びたというものもあります。
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