寛政の改革と蔦屋重三郎

蔦屋重三郎

幕府で政治を動かす老中の役職についていた田沼様(田沼意次)が失脚。その後を受けて、白川藩主の松平定信公が老中首座につきました。この定信公によって、寛政の改革が行われました。時は11代将軍、徳川家斉公の時代です。因みに、寛政の改革は8代将軍、徳川吉宗公の時に行われた享保の改革、12代将軍、徳川家慶公の時に老中、水野忠邦によって行われた天保の改革と合わせて、江戸の三大改革と言われます。

この寛政の改革は蔦屋重三郎にも大きな影響を与えました。具体的には、重三郎自身が処罰を受けることになったのです。ここでは、寛政の改革と蔦屋重三郎について説明します。

寛政の改革で蔦屋重三郎が処罰

田沼意次の凋落

田沼意次(おきつぐ)の父、田沼意行(おきゆき)は元々は紀州藩の足軽の子でした。ですが、紀州時代の徳川吉宗に側近として仕えたことで、吉宗の将軍就任により、旗本になりました。これだけでも、すごい大出世ですが、その子、意次は側用人から、大名へ、そして老中にまで上り詰めました。親子2代で信じられないぐらいの破格の出世をしたと言えます。

田沼意次は大きな権力を持ち、幕政を主導します。全盛期には「田沼時代」と呼ばれるほど権勢をふるいました。しかし、経済重視の政策は賄賂政治をもたらすなど、政権腐敗を招きました。また、地方の疲弊や飢饉等の災害も重なり、打ちこわしや一揆が頻発するなど不満も高まりました。

そうした中、意次の子で、跡取りであった田沼意知(おきとも)が城内で旗本の佐野政言(まさこと)に切りつけられるという事件が起きました。意知は若年寄という重職についてましたが、数日後に36歳の若さで亡くなります。この事件の原因は家系図の窃取だったと言われてます。これを機にすでに高まりつつあった田沼への不満から権勢が衰えていったと言われます。

松平定信の登場

田沼の失脚により、政治の表舞台に登場してきたのが、陸奥国白河藩主の松平定信です。定信は将軍輔佐兼老中首座として、政治を担うことになります。天明の終わりから寛政時代にかけて行われたその様々な改革を寛政の改革【天明7年(1787年)~寛政5年(1793年)】と言います。

寛政の改革は田沼時代との対比でとらえられがちですが、イメージされているような単純な緊縮ではなく、最近の研究では田沼の政策をかなり引きついでいると指摘されています。そうした中、飢饉対策や農業の復興、振興などに手腕が発揮されたとされています。

しかし、いろんなマイナス面も指摘されています。例えば、以下に述べるような事項です。

学問・思想の統制

寛政異学の禁

寛政の改革では一定の引き締めがあったのは事実で、例えば「寛政異学の禁」などがその例として挙げられます。

これは朱子学を幕府の公認の学問とすることで、それ以外の学問を公的な学校(昌平坂学問所)では講義しないとするものです。

他の学問をまったく禁じているわけではないですが、自由に学ぶ気風に大きな影響を与えました。

処士横議の禁

これは在野の者が幕府の政策を批判することを禁止するものです。今でも政府批判を禁止している国は多いですが、江戸時代にも同じようにお上に対する批判は禁じていたわけです。

これによって処罰された人として、海防学者の林子平が挙げられます。彼は「三国通覧図説」「海国兵談」などの著書で海の防備を説きました。

欧米列強がアジアへ進出していた時期ですから、この提言はもっともなことで先見の明があったと言えます。実際、幕末には黒船がやってきて、幕府は右往左往することになります。

しかし、林子平は不安をあおったということで発禁処分の上、処罰を受けました。

出版統制

こうした動向と連動し、出版に対しても統制が加えられるようになりました。出版に関連して処分を受けた人たちには、以下のような人がいました。

蔦屋重三郎

山東京伝の洒落本3作の出版により、咎められ、身上半減の処分を受けます。これは財産の半分を没収されたとする説のほか、年収の半分を没収されたにすぎないとする説もあります。

山東京伝

浮世絵師、北尾政演としても知られる山東京伝は寛政三年(1791年)に洒落本3作が咎められ、手鎖50日の刑に処せられました。その前に寛政元年に石部琴好作の黄表紙「黒白水鏡」に描いた挿絵でも過料を受けてます。

恋川春町

黄表紙の祖とも言われる当時を代表する戯作者でした。駿河小島藩の重臣でしたが、黄表紙「鸚鵡返文武二道」が松平定信の文武奨励策を皮肉っているとされ、呼び出しを受けましたが、病気と称して応じず、その後、隠居し、まもなく亡くなった。自殺したという説もあります。

朋誠堂喜三二

恋川春町の盟友であり、秋田藩留守居役という藩の重臣でもあった朋誠堂喜三二こと平沢常富は藩主の佐竹公からお叱りを受け、戯作からの撤退を余儀なくされた。

唐来参和

黄表紙「天下一面鏡梅鉢」が絶版処分となる。以後、ほとぼりが覚めるまで2年ほど戯作を断念する。

石部琴好

黄表紙「黒白水鏡」が絶版処分となる。さらに、手鎖り数日の処分の上、江戸所払いとなる。山東京伝の項で述べたように、挿絵を描いた北尾政演(山東京伝)も処分を受けている。

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