
松前藩の8代藩主、松前道廣。幕府からお咎めをうけるなど、なかなか個性的な大名として知られています。
2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」では、この松前道廣役を えなりかずき が演じています。
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ここでは松前道廣について説明します。
松前道廣とは
天明四年の「武鑑」には松前道廣について以下のように記述されています。

松前道廣の略歴
宝暦四年(1754年)に7代藩主、松前資廣(すけひろ)と正二位にまでなった公卿の八条隆英の娘、弁子との間に長男として生まれました。
文武両道に優れていましたが、奔放な性格だったようです。それは反幕閣的な一橋治済、伊達家、島津家、幕府から睨まれている高山彦九郎との交流などにも示されています。
また、吉原での遊興や遊女を身請けするなど、私生活も派手でした。これらは藩の財政にも影響し、幕府からも注意されていました。
寛政四年(1792年)に子の章広に藩主の座を譲り隠居しますが、文化四年(1807年)藩主在任中の行為により幕府より謹慎を申し渡されます。
寛政七年(1795年)に弟の蠣崎波響とも交流のあった大原左金吾(呑響)を藩主の師として招きますが、これが裏目に出ます。松前藩の外交政策に懸念を持つ、大原左金吾の讒言が原因となり、陸奥国伊達郡梁川藩への転封を言い渡されます。
旧領への復帰運動を続け、文政四年(1821年)にそれが叶います。その翌年にようやく謹慎が解かれます。
10歳下の異母弟に、宝暦十四年(1764年)生まれの画家として高名な家老の蠣崎波響がいます。
特殊な大名 松前家
松前藩は大名家として非常に特殊な面を持っています。その点について説明します。
松前藩の藩主、松前氏は元々は蠣崎氏と言い、室町時代の中頃から、戦国時代にかけて、蝦夷地と呼ばれた現在の北海道の南端に勢力を築きました。こうした蝦夷地での勢力の確立を背景に、豊臣秀吉や徳川家康によって、蝦夷地での交易の権利を認められました。
江戸時代の大名家は米の標準的な取れ高である石高が家格を示していました。例えば加賀百万石などと称される前田家などがあります。
北海道では元禄五年(1692年)に初めて稲作が行われましたが、寒冷な気候のため成功せず、米作りの成功は明治以降になります。
従って、米の取れない北海道を拠点とする松前氏は、米ではなく、交易の権利が収入源になるという特殊な形態の大名でした。
江戸時代初期には客臣扱いで、5代将軍綱吉の頃に旗本待遇となり、8代将軍吉宗の時に1万石格の大名となりました。
つまり、8代藩主、松前道廣の頃、立場的には外様の最低クラスの大名だったと言えます。
しかし、蝦夷地の交易を通じた実質的な収入は7万石程度あったと言われています。
終わりに
1万石クラスの外様の小大名という公的な立場を超えて、実質的に蝦夷地の交易権を握る権力者という面を持つ松前家という特殊な立場と松前道廣の性格が相まって、当時の特異な動きが可能になったと思われます。それは幕閣にとっては許容できなかったので、謹慎措置を受けたと思われます。
それらはロシアの進出等、当時の国際情勢や蝦夷地の利権に興味を示す幕府の動きなどとも大きく関連していると思われます。
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