
絵師 蠣崎波響(かきざき はきょう)こと松前廣年(まつまえ ひろとし)は松前藩という大名家に生まれながら、絵の才能を生かして絵師としても知られています。
2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」では、この松前廣年役をお笑い芸人のひょうろくが演じています。
ここでは松前廣年について説明します。
松前廣年とは
松前廣年の略歴
松前廣年は松前藩の7代藩主、松前資廣と松前藩士、長倉長左衛門貞義の娘・勘子の子として宝暦十四年(1764年)に生まれました。その翌年に父が亡くなり、異母兄の松前道廣が13代目の藩主となりました。このようにれっきとした大名家の一員だったわけです。
その後、廣年は家禄500石の松前藩の藩主一門寄合であった蠣崎家の養子になりました。その後、家老職に就きました。松前藩は廣年とも交流していた儒学者で経世家であった大原左金吾(呑響)を招きました。
しかし、松前藩の外交政策に懸念を持った大原左金吾の讒言が元となり、結果的に文化四年(1807年)に北海道から陸奥国伊達郡梁川藩に転封されることになりました。それに伴い、廣年も梁川藩に移りました。
旧領への復帰を望む中、文政四年(1821年)にようやく松前への復帰が叶いました。この復帰運動において、廣年の絵が贈答品や資金として役立てられたと言われています。その5年後、文政九年(1826年)に廣年は世を去りました。
廣年の子や孫も松前藩の家老として活躍しています。
絵師 蠣崎波響
上記のように藩主の一族に生まれ、公的な役職を務めると同時に絵師、蠣崎波響としても活躍し、名声を高めました。
幼いころから絵の才能を発揮し、それを見込んだ家老の松前廣長が江戸に呼び寄せ、南蘋派(なんびんは)の建部綾足(たけべ あやたり)、その後、綾足の遺言で同じく南蘋派の宋紫石(そう しせき)に絵を学びました。
南蘋派は中国の画家、沈南蘋(しん なんびん)を祖としますが、沈南蘋は8代将軍吉宗が清から呼び寄せた絵師です。
以下は波郷が二十歳の時に描いたアイヌの男性像です。シントコ、あるいは行器(ほかい)と呼ばれる容器に腰を下ろしています。このシントコは漆器であり、アイヌの富の象徴とされ、シントコの数が家格を示していたとされています。
蝦夷紋別首長東武画像

出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-9499?locale=ja)
また、代表作である「夷酋列像」を持って、寛政三年(1791年)に京都に行き、話題になりました。光格天皇による天覧という栄誉も得ました。京都では円山応挙に師事し、また、高山彦九郎とも交流しました。
上記のように寛政七年(1795年)に招聘した大原左金吾の言により、転封されましたが、松前復帰に波郷の画業は大いに貢献したとされています。
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