
「金々先生栄花夢」で草双紙において、黄表紙と呼ばれる分野を開拓した先駆者、恋川春町。その狂歌名が酒上不埒(さけのうえのふらち)です。
ここでは、言及されることが少ない恋川春町の狂歌師としての側面に注目します。
2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」では岡山天音(おかやま あまね )が演じています。
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酒上不埒とは
前述のように酒上不埒は恋川春町の狂歌名ですが、恋川春町というのは黄表紙など戯作、あるいは浮世絵師としての名前です。本名は倉橋 格(いたる)という、れっきとした武士で、駿河小島藩の藩士です。
酒上不埒という名前の由来は記されておらず不明ですが、酒癖が悪いことから、名付けた可能性も考えられています。
酒上不埒はにわか狂歌師?
“天明狂歌”という言葉があるように、天明期に狂歌は爆発的に流行します。しかし、そうしたブームを創り出した天明狂歌の三大家、四方赤良、唐衣橘洲、朱楽菅江などは、天明期以前から狂歌の活動を行っていました。
しかし、酒上不埒が狂歌師として活動していたのは天明二年(1782年)から七年(1787年)の数年間と考えられています。戯作者として高い評価をされていた恋川春町ですが、酒上不埒はブームに乗じたにわか狂歌師だったと言えるかもしれません。
実際、酒上不埒の残した狂歌は少ないことが知られています。当時の人々は「戯作者が狂歌も詠んでいる…」というような認識だったようです。しかし、自ら狂歌の会を主催するなど、それなりに存在感を示していました。中村正明氏は「後発の狂歌師とはいえ不埒は狂歌壇において一目置かれる存在であった」と指摘しています。
酒上不埒の狂歌仲間
太田南畝
恋川春町と太田南畝、狂名で言うと、四方赤良と酒上不埒は交友関係で結ばれていました。同じ武士出身という点もあったのかもしれません。
この関係が不埒が狂歌界に携わっていく上で大きな力となったようです。実際、不埒が参加した狂歌関係の会のほとんどに南畝も参加していたようです。
狂歌仲間
不埒の狂歌仲間としては、平秩東作編「狂歌師細見」や不埒の主催した「狂歌なよごしの祓」などから次のような狂歌師が推測されています。
小川町住(四方連)、沢辺帆足(四方連)、節原仲貫(四方連)、酒呑親分(四方連)、物音響(四方連)、星屋光次(四方連)、久寿根兼光(四方連)、独寝欠(四方連)、帆南西太(小石川連)、何多良方士(小石川連)、厩のまや輔(朱楽連)、万歳寿(山手連)、千代榛名(山手連)
不埒自身は本丁連であることから、これらのメンバーは各連を横断して集まっていることが分かります。
狂歌関連の戯作
前述のように恋川春町は「金々先生栄花夢」をはじめ、多くの戯作を残していますが、その中には狂歌を題材とした作品もあります。
これは酒上不埒としての狂歌活動が戯作作品へと昇華していったと言えます。そうした作品として、「万載集著微来歴」「吉原大通会」「鎌倉太平序」などがあります。
その中でも「万載集著微来歴」(まんざいしゅうちょびらいれき)は蔦屋重三郎のところから出版されたもので、当時の狂歌界の状況をテーマにして、それを平家物語に仮託して描いた作品です。
当時、狂歌界では四方赤良と朱楽菅江が編纂した万載狂歌集と唐衣橘洲と平秩東作が編集した狂歌若葉集が同時に出版されましたが、それには狂歌界を二分する大きな対立がありました。
そのあたりの裏事情を描いた作品として注目されています。
「万載集著微来歴」 恋川春町 作画

「吉原大通会」 恋川春町作画

酒上不埒の狂歌
・もろともに ふりぬるものは 書出しと くれ行としと 我身なりけり
この歌の意味は「全て疎ましく嫌いになるものは、つけ払いの請求書の束と迫りくる年の暮れと、歳をとる我が身である」というものです。

吾妻曲狂歌文庫 より【東京都立中央図書館所蔵】
【辞世の句】われもまた 身はなきものと 思ひしが 今はのきはぞ くるしかりけり
狂歌師としての評価
同時代の不埒に対する狂歌師としての評価はないようです。それは公表された不埒の狂歌が少なかったからだと考えられています。しかし、菅 竹浦は「狂歌は中々巧みであった」と述べています。
広瀬朝光氏は不埒の狂歌について、その基調は風刺、生活の苦しさ、知人との交際などを題材とし、技巧的には天明狂歌に特徴的な本歌取り、同音異義語(両用言葉)、掛詞(尻取)、縁語などの多様を指摘しています。
参考文献
中村正明「酒上不埒の狂歌」
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