べらぼう 佐野政言(さの まさこと)

幕府

天明四年(1784年)、旗本だった佐野善左衛門政言が江戸城内で当時、若年寄という幕府の重職についていた田沼意知(おきとも)に切りかかった事件が起きました。この時に受けた傷が原因で田沼意知は八日後に亡くなりました。ここでは、その佐野政言について解説します。

2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」では佐野政言役を矢本悠馬が演じています。

佐野政言とは

それでは佐野政言とはどんな人物で、どういう経緯で事件に至ったのかを順次見ていきます。

佐野政言の経歴

佐野家の由来

佐野家は徳川家の発祥地である三河(現在の愛知県東部)以来、徳川家に仕えてきた譜代の武士です。代々、番士を務める旗本の家柄でした。

将軍家の家来は将軍に目通りができる、いわゆる御目見以上の旗本と、目通りができない御家人(ごけにん)に分かれます。そういう意味で旗本は一定の格がある徳川家家臣と言えます。実際、当主は大名と同様に「殿様」と呼ばれました。

番士は軍事面で奉仕する役柄で、警備や警護などを担当しました。番士には書院番、小姓組、大番、小十人、新番など五番方と言われる組織があり、政言の父親、佐野政豊は大番や新番を務めました。

事件を起こす10年ほど前に、17歳で家督をついだ佐野政言の家禄は500石でした。1万石以上は大名となるため、基本的に旗本は100石程度から数千石取りまで様々な家柄がありました。その中で500石は旗本としてまずまず中ぐらいのレベルの家柄だったと言えます。

政言も父と同じく大番士、新番士として勤務しました。

事件の概要

江戸城内で刀を抜いて切りかかった事件としては元禄時代にあった忠臣蔵として知られる有名な赤穂事件があります。実はそれ以外でも江戸城内での刃傷沙汰はいくつか記録されています。

赤穂事件では吉良上野介に切りかかった浅野内匠頭は即日切腹を命じられています。いずれにしても城内で刀を抜くというのは大変な出来事でした。切った本人への処罰はもちろん、家の断絶、親類縁者への連座なども覚悟しないといけませんでした。

事件のあらまし

さて、事件は天明四年(1784年)三月二四日に江戸城内において、田沼意知が他の若年寄らと退出していたところ、新番士であった佐野政言が番所より飛び出し、「山城殿御覚可有之」と三回叫びながら切りかかったというものです。

意知は肩、両股、手首などに傷を負い、即死ではありませんでしたが、8日後に亡くなりました。

では、なぜ佐野政言は田沼意知に切りかかったのでしょうか。まずは切られた相手方である田沼意知について見てみます。

田沼意知とは

田沼意知はその頃、幕府の若年寄という役職についていました。若年寄は老中に次ぐ役職で、通常は小禄の譜代大名から選ばれました。

この意知の父こそ老中として権力をふるっていた田沼意次です。田沼意知自身は大名ではなく、遠江国相良藩主であった田沼意次の世子という立場で、若年寄に就任していました。自身が大名ではない世子としては異例の抜擢だったといえます。

つまり、当時、田沼父子が老中と若年寄に就任し、実験を握っていたわけです。ですから、この時代は田沼時代と呼ばれています。

田沼意知に切りかかった理由

次に、城内で刃傷沙汰を起こせば大変な事態になるとわかっているのに佐野政言が切りかかった理由についてみていきます。

幕閣の現役の若年寄が城内で切られ、命を落とすという事態に対し幕府側ではこれを佐野政言の乱心として処理しました。

ですが、「御覚可有之(覚えがあろう)」と切りかかったことから、両者の間で何らかのトラブルがあったと思われます。一般には次のような理由が考えられています。

家系図をめぐるトラブル

佐野家の家系図を借りたまま返さなかったというトラブルがあったとされています。佐野家は藤原秀郷流の足利氏の後裔と称していましたが、その家来筋であったとされる田沼家が家系に箔をつけるため、家系を改ざんしようとしていたと言われています。

田沼意次の祖父は紀州藩の足軽であり、意次の父、田沼意行(おきゆき)が紀州藩主になる前の徳川吉宗に仕えたことで運が開けました。その後、将軍になった吉宗は多くの紀州藩士を幕臣に登用し、田沼意行も旗本に列することになったのです。

つまり、祖父の代まで紀州藩の足軽だった田沼意次は父の代で旗本に、そして自らは大名になるとともに老中にまで上り詰めるという破格の出世を遂げました。しかし、家系にコンプレックスがあったのかもしれません。

佐野大明神の乗っ取り

下野国の佐野家の領地には佐野大明神がまつられていました。これを意知の家臣が乗っ取り、田沼大明神にしたとされています。これが事実だとすれば、上記の家系改ざんの一環だったと言えるでしょう。

出世できなかったこと

田沼時代は賄賂が横行した時代であったのは有名な話ですが、出世を望んだ佐野政言が賄賂を贈ったにも関わらず、一向に昇進できなかったことで恨みを持ったともいわれています。

政言からすれば、お金をだまし取られたと感じていたのかもしれません。

鷹狩の褒賞

前年の冬にあった将軍、徳川家斉の鷹狩の際、弓のメンバーに選ばれ、雁を一羽獲ったにもかかわらず、褒章がありませんでした。

以上を見ても、いずれの理由にしろ、プライベートな怨恨だったとおもわれます。

しかし、田沼の反対派にそそのかされて行った政治的テロという陰謀論的な説もあります。

世直し大明神としての佐野政言

この田沼意知の殺害は政治的にも大きな影響が生じました。まず、これ以後、田沼派の力が弱り、衰退していく契機になりました。

一見すると、佐野政言の暴挙に思えるこの事件ですが、一般の人々の捉え方は違いました。当時、一般の民衆に田沼は憎まれていたようで、佐野政言の行為を多くの人が褒めていたようです。実際、佐野政言を世直し大明神と呼ぶ人もいたようです。

例えば、政言は切腹後、徳本寺に葬られていましたが、そこに多くの人が参るために詰めかけました。その数があまりに多くて入りきらず混乱したことから、寺社奉行から同心が派遣されるほどだったようです。

これは当時、物価の高騰が多くの民衆を苦しめていたという背景があり、それが田沼政治に対する憎しみとなっていたからです。ですから、田沼意知の葬儀には石が投げられたと言われています。

「黒白水鏡」 石部琴好作、北尾政演画

寛政元年(1789年)にこの事件をネタにした黄表紙『黒白水鏡』(こくびゃくみずかがみ)が出版されました。石部琴好が執筆し、北尾政演が絵を描きました。ですが、当時、幕府の政治について言及することは厳禁されていたので、石部琴好は手鎖りの刑の後、江戸所払い、北尾政演も罰金刑を受けました。

参考文献

山田忠雄「佐野政言切腹余話

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