
戯作者として著名な山東京伝は浮世絵師、北尾政演としても活躍していました。同時代を代表する戯作者であった京伝について、ここでは解説します。
山東京伝とは

鳥橋斎栄里「江戸花京橋名取」より
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-360?locale=ja)
山東京伝は宝暦十一年(1761年)に江戸の深川木場で生まれました。最初は北尾重政の弟子として、浮世絵師、北尾政演(まさのぶ)の名で活躍しました。
初期の浮世絵師として活動していたころについては、「浮世絵師 北尾政演(きたお まさのぶ)」の項で説明しています。
ここでは、戯作者としての活動を中心にその全体像を紹介していきます。
山東京伝の誕生
安永七年(1778年)に黄表紙「お花半七開帳利益札遊合」の挿絵で浮世絵師としてデビューした北尾政演は、その翌々年の安永九年(1780年)には挿絵だけでなく、文も手掛けた黄表紙作品、「娘敵討古郷錦(むすめかたきうち こきょうのにしき)」、「米饅頭始(よねまんじゅうの はじまり)」を発表しています。
早くから戯作の執筆にも携わっていたことがわかります。「娘敵討古郷錦」では「画工北尾政演」と記載され、「米饅頭始」では「北尾政演画作」と記載されています。
また、「娘敵討古郷錦」では「京伝戯作」という印が押されており、この頃に京伝という名を使い始めたことがわかります。
因みに京伝というのは京橋に住む伝蔵という意味のようです。京伝は後に京屋という店も開いています。
黄表紙「娘敵討古郷錦」 京伝戯作 画工北尾政演

『娘敵討古郷錦 / 山東京伝作』(東京大学総合図書館所蔵)を改変
黄表紙「米饅頭始」 北尾政演画作

その後、天明二年(1782年)に黄表紙「御存商売物(ごぞんじのしょうばいもの)」を出し、太田南畝に高く評価されます。この年以降、山東京伝という名を名乗るようになります。これは江戸の紅葉山の東に住む京橋の伝蔵という意味のようです。
代表作「江戸生艶気樺焼」(えどうまれうわきのかばやき)

天明五年(1785年)に京伝の代表作ともいえる「江戸生艶気樺焼」を刊行しました。主人公の大金持ちの一人息子、艶二郎がモテたい一心で織りなすハチャメチャな内容ですが、大ヒット作品となりました。
艶二郎は鼻が上向き加減の団子鼻が特徴で、この鼻は「京伝鼻」と呼ばれました。京伝が作中に登場する作品では、実際はそれなりに男前だったようですが、この京伝鼻の人物として登場していました。
うぬぼれた主人公の行動から、艶二郎はうぬぼれを意味するようになりました。印象的なキャラであることから、後の作品にも、この艶二郎が登場しています。
狂歌師 身軽折輔
京伝は身軽折輔(みがるのおりすけ)という狂名を持って、狂歌も詠んでいました。
実妹、黒鳶式部とともに数奇屋連に属していたようです。
山東京伝をめぐる人々
山東京山
京伝の実弟、相四郎こと岩瀬 百樹(いわせ ももき)も合巻を書く戯作者となり、山東京山と名乗りました。
昔模様娘評判記 山東京山

黒鳶式部
京伝の実妹、よね。狂歌師として活躍したほか、黄表紙も書いています。
山東京伝のエピソード
山東京伝と吉原
京伝は若いころから吉原遊びをしていました。当時、蔵前の札差と言えば、江戸の遊びの通として知られていました。中でも十八大通の一人であった札差の文魚と交流があったことは有名です。
また、京伝の最初の妻は30歳の時に結婚した吉原の扇屋で番頭新造だった菊園です。菊園はその3年後に病気で亡くなります。
40になった京伝は吉原の弥八玉屋で振袖新造だった玉の井(百合)と再婚します。このように二度とも吉原の遊女を妻にしています。なお、百合の妹、滝を養女にしています。
吉原に対して深い知識を持っていた京伝の戯作には、こうした吉原通としての側面が反映されています。
京伝勘定
仲間同士で飲みに行った場合、代表者がまとめて支払うのが一般的だった当時、京伝は料金を皆で割る、割り勘をしました。今では当たりの前のように行われる割り勘ですが、当時はユニークだったらしく「京伝勘定」と名付けられています。割り勘の祖と言えます。
「京屋」を開業
京伝は京橋銀座一丁目に煙管や紙製煙草入れなど喫煙用の小物を扱う「京屋」という店を開業しました。そこで、自分がデザインした紙製煙草入れを売り、評判となりました。京伝の作品中にはこうした商品の販売を促進するための広告文章が入れられていたりします。

出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-2140?locale=ja)
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