五代目瀬川

吉原関係

鳥山検校に身請けされたことで有名な五代目瀬川。2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」では小芝風花が瀬川役を演じています。

ここでは五代目瀬川について述べていきます。

五代目瀬川とは

吉原の妓楼、松葉屋の花魁として有名なのが瀬川です。何代にもわたって「瀬川」の源氏名は受け継がれています。その中で五代目「瀬川」は安永四年(1775年)に大金で鳥山検校に身請けされたことで、当時、話題になりました。

では、この鳥山検校というのはどういう人物だったのでしょうか?

鳥山検校とは

鳥山検校は幕府公認の男性盲人組織である当道座の最高位である検校の一人でした。最高位の検校ともなるとかなりの権威があったようです。そもそも、当道座は平曲や三曲などの音楽芸能や按摩、鍼灸などを生業としていました。

組織は位が序列化されていて、最下位から検校の最上位になるまでには719両ものお金が必要でした。そうしたことから、上記の芸能、按摩、鍼灸以外に金貸しも認められていました。

2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」では市原隼人がこの鳥山検校役を演じています。

鳥山検校の失脚

検校の中には、高利貸しを行うことで大金を蓄財する者もいました。鳥山検校もその一人です。これにより、お金を借りた御家人や旗本が窮迫し、出奔すると言った事態も生じました。

こうした事態を受け、高利をむさぼった金貸しとして、安永七年に鳥山検校を含む複数の検校たちが処罰を受けました。

特に鳥山検校は家財の他、20両のお金、それに1万5千両におよぶ貸付金、町屋敷一か所以外にも複数の不動産を有していたようです。

五代目瀬川が身請けされた安永四年から三年後のことですが、その後、瀬川がどうなったのかは不明です。

五代目瀬川の後日談

瀬川の後日談としては次の二つがあります。

・鳥山検校が処罰を受けた後、瀬川は深川に住む飯沼という武家に嫁ぎ、二人の子をもうけた。夫が死去した後、大工仕事にきた結城屋八五郎と仲良くなり、八五郎の下に行った。

・本所の御家人青木健蔵と馴染んでいたので、鳥山検校に身請けされた翌年に家出して、青木と夫婦になり、老年に至ると根岸に住み、亡くなったという。

いずれにしても、これらは噂話のようなものであり、どこまで事実を反映しているのかはわかりません。

拡散される五代目瀬川のエピソード

五代目瀬川の文芸化

この五代目瀬川と鳥山検校の一件は鳥山の失脚も重なり、多くの注目を集めたようで、当時の文芸である読本、黄表紙、人情本などにそれらのエピソードが取り入れられています。

いくつか例を挙げておきます。

【黄表紙】姉二十一妹恋聟  伊庭可笑 作, 鳥居清長 画

【黄表紙】跡着衣装 十返舎一九 作, 喜多川喜久麿 画

現代でも世間で話題になったゴシップなどが小説化されたりしますが、それと同じようなものだったと言えます。

五代目瀬川の芸能化

上記の文芸化と並行して、歌舞伎などにも取り入れられ、上演されるようになります。これは現代風に言うと、世間で話題になったゴシップをドラマや映画化したと言えそうです。

それを描いた以下の浮世絵などもあります。

松葉屋 瀬川 歌川豊国【三代目】画(国貞)

五代目以外の瀬川

太田南畝の随筆「俗耳鼓吹」には五代目以降の瀬川に関して次のような記述があります。

松葉屋瀬川を鳥山検校がうけ出せしより後、天明二年寅四月朔日、つき出し瀬川いできたり 、

竹村が蒸籠自ら分明、松葉屋の中第一の名 、検校昔時金已に没す、瀬川今日水猶清し

松ばやのちりうせぬ名をつき出しや瀬川の水にせいらうの山

となん口ずさみ侍りし。

同三卯年秋、瀬川を後藤手代のものうけ出せしよし、(千五百両をもて贖し)といふ、

同四辰年四月朔日、瀬川出来る、(このもといふ禿也、うたひめが禿なり 、)   

天明八申年三月、瀬川うけ出さる、主は松前公子文喬也、五百両也と云、

同四月朔日より、瀬川といへる出来る。

内容を簡単に言うと、五代目瀬川は安永四年(1775年)に鳥山検校に身請けされましたが、その後、六代目が天明二年(1782年)の4月1日にデビュー。

天明三年(1783年)の秋に後藤手代のものが1500両で身請けする。

その後、天明四年(1784年)の4月1日に「このも」という「うたひめ」の禿(かむろ)が六代目になる。

天明八年(1788年)の3月に松前公子文喬によって500両で身請けされる。

その4月に7代目がデビューする。

※ちなみに「禿」(かむろ)というのは花魁などのお世話をする幼い女の子を指します。

以上のように次々と瀬川という源氏名が引き継がれている様子がわかります。

参考文献

高木元 『江戸読本の研究 -十九世紀小説様式攷-』第四節 鳥山瀬川の後日譚

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