べらぼう つるべ蕎麦 増田屋半次郎

吉原関係

2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」ではつるべ蕎麦を営む蕎麦屋の半次郎役を六平直政(むさか なおまさ)が演じています。

ここでは、この半次郎について解説します。

鶴瓶そば 増田半次郎とは

蕎麦屋半次郎は実在の人物

つるべ蕎麦屋の半次郎は当時、実在していました。下記の図は安永八年(1779年)の吉原細見に掲載されているものです。

※吉原細見について詳しくはこちらの吉原細見と蔦屋重三郎を参照!

左側の緑で囲んでいるのが吉原に出入りする門である吉原大門です。この門を境にして左側の部分に吉原があります。

この吉原大門へと続く右側の道が五十間道(ごじっけんみち)と言う道です。道の両側には茶屋などが並んでいました。

大門から四軒目に青で囲んだ部分に「つたや 次郎兵衛」と書かれています。これが蔦屋次郎兵衛の店です。

その右側、さらに四軒目に青で囲んだ部分に「細見板本本屋 つたや重三郎」と書かれています。これが蔦屋重三郎の本屋です。

その道を隔てた向かい側の赤で囲んだ部分に「ましたや 半次郎」と書かれています。これが増田屋半次郎の蕎麦屋です。

それより前の安永四年(1775年)の吉原細見には

「ツルベソバ
 ますたや 半二郎」と書かれています。

つまり、次郎兵衛や蔦重の店の向かいには半二郎のつるべ蕎麦屋が間違いなくあり、屋号は増田屋であったことがわかります。

増田屋の歴史

増田屋の系譜をひくという「おそば増田屋」のサイトでは、次のように記載されています。

寛保二年(1742年)江戸時代中期、浅草吉原五十間口(現日本橋人形町)に「釣瓶蕎麦(つるべそば)」と「若松屋幸助」と云う蕎麦屋があった。

明和五年(1768年)江戸時代後期、「若松屋幸助」の店を譲り受けた増田屋次郎介が、「釣瓶蕎麦」共に継承し、同九年、伏見町(現台東区千束四丁目)にのれん分け店「釣瓶蕎麦」と「増田屋清吉」と云う蕎麦屋が開店し、浅草名物となった。

これが「増田屋」の名称の起源となり、創祖は「増田屋次郎介」である。

安永四年(1775年)初代増田屋次郎介の店を、次郎介から半次郎が家業を継ぎ、さらに、天明三年(1783年)半四郎へと名義が変わった。

明和五年(1768年)の吉原細見を見ると、以下のように増田屋次郎介という名が見られます。

吉原名物だった鶴瓶そば

重版事件を起こして、吉原細見を発行できなくなった鱗形屋に変わり、安永四年(1775年)に蔦屋重三郎が初めて自力で「籬の花」という吉原細見を発行します。

その「籬の花」の最終頁に以下の7つの「吉原名物」が紹介されています。

  • 「袖の梅 これはあき人のいえ々にあり」ー二日酔いの薬である袖の梅
  • 「巻せんへえ 中ノ丁 くわしや 竹村伊勢」ー中の町にあった菓子屋 竹村伊勢の巻せんべえ
  • 「よしハらさいけん 是も明き人の家々にあり」ー吉原細見
  • 「かんろばい 水道尻 山口や半四郎」ー吉原の一番奥である水道尻の山口屋半四郎による甘露梅
  • つるへそは 五十間道 増田半次郎」ー五十間道にある増田半次郎による鶴瓶そば
  • 「最中の月 松や忠次郎」ー松屋忠次郎による最中の月
  • 「豆腐 あけや丁 山や市右衛門」ー揚屋町の山屋市右衛門による豆腐

この中に、増田半次郎による鶴瓶そばが入っています。

「風来六部集」にも記載

「風来六部集」という書物は風来山人 (平賀源内 ) 著、天竺老人 (森島中良) 編とされています。この中に収録されている「太平楽巻物」(たいへいらくのまきもの)に「つるべそばはほそきをきらはず」という記述があります。

「狂文吾嬬那万俚」(きょうぶんあずまなまり)にも記載あり

狂歌四天王の一人、宿屋 飯盛(やどやの めしもり)による「狂文吾嬬那万俚」(きょうぶんあずまなまり)に「くるわに客をつるべそば」という記述があります。

終わりに

以上のように、吉原で働く人々や吉原にやってくる遊客などが、この増田屋で蕎麦をすすったことでしょう。もちろん、店の向かいに住んでいた蔦屋重三郎や蔦屋次郎兵衛も食べたに違いありません。

名物のそばの味を知りたいものですね。

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