彗星のごとく現れて、忽然と消えてしまった謎の浮世絵師、東洲斎写楽。そのセンセーショナルな登場と個性的な作品で浮世絵界で最も注目される浮世絵師の一人です。写楽は一体誰なのか?これは浮世絵界最大のミステリーともいわれています。ここでは写楽について解説します。
東洲斎写楽とは
東洲斎写楽は寛政六年(1794年)五月から寛政七年(1795年)一月までの10か月間、活動した後、姿を消した浮世絵師です。この期間に145点ほどの作品を残しています。
非常に短期間の間に多くの作品を残していること、そして、それ以前と以後の浮世絵師としての活動の形跡が不明であることから、“謎の絵師”という言葉がぴったりな存在です。
写楽の作品
わずか10か月という短い活動時期ですが、写楽の作品は四つの時期に分類することができます。
【第一期】 寛政六年(1794年)5月
この写楽のデビュー作は28作品が知られています。すべて大判黒雲母摺による豪華な歌舞伎役者の大首絵で、写楽の代表作とされる作品の多くが含まれています。役者は主役からわき役まで含まれています。
描かれている歌舞伎作品の場面は都座の「花菖蒲文禄曽我」11図、桐座の「敵討乗合噺」7図、河原崎座の「恋女房染分手綱」10図です。
三代目大谷鬼次の江戸兵衛 ※重要文化財
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-471?locale=ja)
※「大谷鬼次の江戸兵衛」の詳細はこちらを参照!
市川鰕蔵の竹村定之進 ※重要文化財
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-470?locale=ja)
※「市川鰕蔵の竹村定之進」の詳細はこちらを参照!
【第二期】 寛政六年(1794年)7月、8月
第二期には30以上の作品が出されていて、気に入った型やポーズを描いた大判と細版の役者全身図から成ります。
描かれている歌舞伎作品の場面は都座「けいせい三本傘」の雲母摺の大判4図と細判13図、河原崎座「二本松陸奥生長」と「桂川月思出」の雲母摺の大判2図と細判8図、桐座「神霊矢口の渡」と「四方錦故郷旅路」の雲母摺の大判2図と細判9図です。
三代目大谷鬼次の川島治部五郎
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-489?locale=ja)
【第三期】 寛政六年(1794年)11月
第三期は歌舞伎の顔見世興行に合わせたもので、64図の作品が出されています。通常、この時期には多くの役者絵作品が出版されます。
役者絵の細判全身図が47図、間判大首絵が11図、追善絵が間判(2枚組)1図、そのほかに相撲絵が大判(3枚組)1図、間判1図出されています。
描かれている歌舞伎作品の場面は河原崎座「松貞婦女楠」の細判14図と間判2図、都座「閨訥子名歌誉」の細判16図と間判2図、同じく都座「花都廓縄張」の間判3図、桐座「男山御江戸盤石」の細判17図と間判4図です。
第三期以降、芸術性が衰退していると言われ、その要因の一つは写楽自身が歌舞伎の舞台を見ずに描いた、見立てという方法で描いたためと言われています。また、写楽自身が書いたものでない代作の作品も混じっていると言われています。
二代目中村野塩の小野の小町
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-3568?locale=ja)
【第四期】 寛政七年(1795年)1月
多くの浮世絵が出版される正月に合わせて出版されていますが、都座・桐座の春狂言を描いた10図および相撲絵2図とわずかな数の作品にとどまっています。
二代目板東三津五郎の五郎
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-3565?locale=ja)
肉筆画の発見
写楽の肉筆画とされるものには偽物が多いようですが、その中で本物であるとされる作品が2008年に見つかりました。それはギリシャの国立コルフ・アジア美術館が所蔵している扇面画です。
役者が二人描かれていて、それぞれ四代目松本幸四郎の加古川本蔵と松本米三郎の小浪と同定されています。
注目されるのは描かれている場面が寛政七年五月(1795年6月)に江戸河原崎座で演じられた「仮名手本忠臣蔵」であることから、写楽の最後の作品とされる寛政七年(1795年)一月以降に描かれているという点です。
果たして間違いなく本物の肉筆画なのかどうか注目されています。
写楽と蔦屋重三郎
写楽の浮世絵はすべて蔦屋重三郎が出版しています。しかも、寛政六年(1794年)5月のデビューの際にはまったく無名であるにもかかわらず、大判雲母摺という豪華な仕立てで30種近くの作品を一気に売り出すという例のない方法でした。
まさに両者の二人三脚により完成させた作品群だと言えます。蔦重は写楽を擁して、一気に役者絵の世界を席巻しようと考えていたのだと思われます。
※詳細は蔦屋重三郎と東洲斎写楽を参照!
写楽の正体は!?
では、写楽とは一体何者なのでしょうか?
考証家、斎藤月岑が天保十五年(1844年)に書いた新増補浮世絵類考には写楽について次のように書かれています。
俗称斎藤十郎兵衛、八丁堀に住す。阿洲侯の能役者也。
つまり、八丁堀にすんでいる阿洲侯(阿波徳島藩主である蜂須賀家)のお抱えの能役者、斎藤十郎兵衛が写楽であるとはっきりと書かれています。実際、八丁堀には、徳島藩の江戸屋敷が存在していました。
写楽の活躍後、既に50年が経過しているとはいえ、これが写楽の正体について記載した江戸時代で唯一の文献でした。
しかし、そんな無名の人物の名を言われても、「はいそうですか」と納得できないのもわかります。そもそも、斎藤十郎兵衛という能役者が本当に実在するのかどうかも定かではありません。そのため、写楽は斎藤十郎兵衛とは異なるという別人説が出てきました。
この別人説については様々な人を写楽に見立てて「写楽○○説」が生まれています。実際、写楽とされている人物として、葛飾北斎、喜多川歌麿、歌川豊国など浮世絵師はもちろん、円山応挙、谷文晁などの絵師、戯作で著名な山東京伝、十返舎一九、さらには版元の蔦屋重三郎…等々、まさに百花繚乱状態です。
そんな中、調査によって斎藤十郎兵衛という人物が八丁堀に住んでいたこと、斎藤十郎兵衛という名の能役者がいたこと、蜂須賀家でそういう名の役者を抱えていること、埼玉県越谷市にある法光寺の過去帳により、文政三年(1820年)に58歳で没しており、釈大乗院覚雲居士という法名であることなどがわかりました。
以下に、そうした資料の一つである瀬川富三郎による「諸家人名江戸方角分」を載せておきます。
この諸家人名江戸方角分というのは江戸の文化人の住所一覧表といったもので、地域別に書かれています。写楽の掲載されているのは八丁堀の部分です。
「号写楽斎」「地蔵橋」という文字が確認できます。この地蔵橋は「八丁堀」区域内にある「地蔵橋」という地名です。
一番上の×印は浮世絵師であることを示し、その横の“「”の向きを反対にした記号は故人であることを示しています。
本来、一番上の名前の空欄箇所には「写楽」、下の空欄箇所には「斎藤十郎兵衛」と記載される予定だったのでしょうか。
ただ、この本が成立したのは文政元年(1818年)ですが、上述のように過去帳から斎藤十郎兵衛が亡くなったのは文政三年(1820年)となっているので、齟齬が生じています。
こうした資料などから、斎藤十郎兵衛の実在が確認されたわけです。また、浮世絵類考の写本の一つに次のような記述があります。
写楽は阿州の士にて斎藤十郎兵衛といふよし栄松斎長喜老人の話なり
この栄松斎長喜は鳥山石燕門下の浮世絵師、つまり喜多川歌麿とは兄弟弟子ということになります。作画期も写楽と同時代の人物です。
蔦屋重三郎が栄松斎長喜の作品を多数手がけていて、長喜を重用していたことがわかります。写楽と同様、蔦重との関係が深いことから、長喜は写楽を直接、見知っていた可能性もあります。
以上の状況から、現在は写楽=斎藤十郎兵衛説が最もポピュラーになっています。
因みに東洲斎の東洲は江戸の東で洲のあった場所ということで、築地や八丁堀を意味し、それは斎藤十郎兵衛が住んでいた場所を指していると考える説もあります。また、「とうーしゅうーさい」と斎藤十郎兵衛の斎藤十「さいーとうーじゅう(しゅう)」は関係があると考えている人も多いです。
能役者 斎藤十郎兵衛
能役者、斎藤十郎兵衛が実在し、阿波蜂須賀家のお抱えだったこともわかっています。では、能役者として他に情報はないのでしょうか。
実は研究により、次の事もわかっています。
- 斎藤家は延宝頃から幕末にかけて代々、能役者を務めている家柄である。
- 斎藤家は下掛宝生流の弟子筋にあたる。
- 能の主役はシテ、その相手役をワキと呼びますが、そのワキの助演者がワキツレで、斎藤家はこのワキツレの家柄である。
- 斎藤十郎兵衛の父親の名は与右衛門であり、斎藤家では代々、十郎兵衛と名乗る場合と与右衛門と名乗る場合があった。この二つの名を交代で名乗っている可能性もある。因みに写楽と比定されている斎藤十郎兵衛の子は与右衛門、孫は十郎兵衛と名乗っている。
- 文化七年(1810年)、49歳だった時、喜多座の地謡であった。
- 江戸城で開催された能に出演者として記録がある。
しかし、能の方面からの研究で、斎藤十郎兵衛と写楽を結びつけるような資料は見つかっていません。
写楽の評価
写楽の評価については、同時代の人物である太田南畝の浮世絵類考に次のような記述があります。
これは歌舞妓役者の似顔をうつせしが、あまり真を画かんとてあらぬさまにかきなさせし故、長く世に行はれず一両年に而止ム
当時、浮世絵の役者絵は芸術作品ではなく、役者のファンからするとプロマイドのようなものでした。ですから、理想化せずにあまり本当の部分を書きすぎると評判が良くなかったのかもしれません。
参考文献
表章「写楽斎藤十郎兵衛の家系と活動記録」
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