べらぼう 大奥筆頭老女 高岳(たかおか・たかだけ) 

幕府

江戸時代において、原則、将軍以外の男子禁制の特殊な場所であった大奥。この大奥においては、時代ごとに権勢をふるった女性がいました。例えば、三代将軍家光の時には春日局が絶大な権力を誇りました。

ここでは、11代将軍家斉の時代に大奥筆頭老女として権勢をふるった高岳について説明します。

2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」では高岳役を冨永愛が演じています。

2024年のフジテレビの「大奥」では、この役を田中道子が演じています。

また、2023年のNHKドラマ「大奥」では男女逆転設定で高岳役を相島一之が演じています。

大奥総取締役 高岳とは

上記のように大奥で実権を握っていた高岳は時代劇ドラマなどでも出てきますが、そうした場合、「大奥総取締役」などとされています。ですが、実際には大奥にそうした役はなく、大奥筆頭老女ということになります。まずは大奥の仕組みと身分について簡単に説明します。

大奥の仕組み

大奥は将軍の妻子、側室や様々な役柄の奥女中が住む場所です。将軍家の安定的な継承を目的としていて、基本的には将軍以外には男性は入れない場所です。言わば将軍家の後宮であり、まさに女の世界と言っても良いでしょう。

この大奥のトップは当然、将軍の正室である「御台所」(みだいどころ)です。御台所は基本的に京都の公家出身でした。ですから大奥の名目的な主宰者だったと言えます。また、側室に関して、男の子を生んだ側室は「お部屋様」、女の子を生んだ側室は「お腹様」と呼ばれました。

大奥には1000人~3000人ほどの様々な役柄の女性がいたと言われています。身分も細かく分かれていて、そうした女性を束ねていたのが老女と呼ばれる女性であり、かなりの権力があったようです。

大奥の地図

以下は江戸城の大奥の場所を示す地図です。上部左側の何も色が塗られていない箇所が天守台です。黄色い部分は御殿群で、儀式や対面に使う場所、さらには御台所や側室、あるいは将軍の母などが住む場所です。一方、赤い部分は奥女中の居住する長局です。

出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/P-2359?locale=ja)

次に大奥の女中の身分について簡単に触れておきます。

大奥の女中の身分

将軍の家臣には直接将軍と会うことができる(御目見え【おめみえ】という)旗本と、会うことができない御家人(ごけにん)がいました。例えば、大岡越前や遠山の金さんなど、町奉行所のお奉行は旗本ですし、その配下の与力や同心は御家人に属していました。

大奥の女中においても同様に将軍や正室に目通りができる御目見え以上とそれが許されていない御目見え以下の区別がありました。

また、女中には将軍付きの女中と将軍の正室である御台所付きの女中がいて、両者とも同じ名称の役職で呼ばれていましたが、将軍付きのほうが格が高いとされていました。

老女(上臈御年寄・御年寄)

前述のように大奥の名目的な主宰者は将軍の正室である御台所でしたが、実質的な実務を取り仕切っていたのが老女と呼ばれている女性です。

この老女には上臈御年寄(じょうろうおとしより)と御年寄(おとしより)がいて、両者を合わせて老女と呼ばれました。この二者のうち、上臈御年寄のほうが格上とされました。

上臈御年寄は公家出身の御台所とともに京都から来た公家出身の女性が多く、御台所に関係した用務や相談役という立場でした。そういう意味では大奥の実験を握るというより名誉職的な立場だったことが多いようです。

一方、御年寄は上臈御年寄より格下ですが、実質的には大奥を取り仕切る立場で、権力を握ることが多かったようです。

しかし、上臈御年寄=格上=名誉職、御年寄=格下=実質的権力といった構図は固まっていたわけではなく、その時々の状況によって変わりました。

例えば、上臈御年寄が実質的な権力を握っていたケースもあり、高岳も将軍御付きの上臈御年寄でした。

大奥での高岳の足跡

上臈御年寄で筆頭老女として大奥で権勢をふるった高岳ですが、それほど詳しくは資料が残されていないようで、生没年も不明のようです。

高岳の前には上臈御年寄で筆頭老女だった松島局(まつしまのつぼね)が長らく大奥の権力者として君臨していました。

松島局は享保十六年(1731年)に後に9代将軍となる徳川家重に嫁ぐために京都から来た増子女王とともに江戸城に入りました。その後、9代家重、10代家治の時代にも上臈御年寄として権勢をふるいましたが、安永三年(1774年)からは高岳が筆頭老女となり、松島局は姿を消しました。

高岳が活躍した時期は田沼意次が活躍した時期と重なっています。仙台藩主の伊達重村が官位昇進を狙って幕府の権力者に賄賂を贈りますが、その相手が老中筆頭の松平武元、田沼意次とその弟の田沼意誠、それに高岳でした。

11代将軍の徳川家斉から松平定信の老中就任について意見を聞かれた時、反対しました。その後、松平定信が老中になると大奥を去ったようです。

以上の点から、田沼政権と蜜月関係にあったのは間違いないようで、松平定信の登場と共に大奥を去ることになったのだと思われます。

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