わずか10か月ほど活躍した後、忽然と姿を消した謎の浮世絵師、東洲斎写楽。その写楽をプロデュースしたのが何を隠そう蔦屋重三郎です。写楽の作品はすべて蔦屋から出ています。ここでは蔦屋と写楽の関係について考えてみます。
蔦屋と写楽の関係
蔦屋重三郎の役者絵へのアプローチ
浮世絵には相撲絵、風景画、花鳥画、挿絵など様々なジャンルがあります。その中でも浮世絵を代表すると言えるのが、美人画と役者絵です。
美人画では天明期に鳥居清長ー版元 西村屋与八という強力なラインがありましたが、寛政期に入ると蔦屋重三郎は喜多川歌麿を擁して、美人画界を席巻することができました。
そうなると次なる狙いは役者絵ということになります。
役者絵界の動向
役者絵では当時、勝川春章が大御所として活躍していました。春章の後、誰が役者絵界を背負っていくことになるのか注目されていたと思います。
勝川春章には、春好、春朗、春英の高弟と言える3人の弟子がいました。もちろん、この3人はその候補者だったと言えます。因みにこの勝川春朗こそ、後の葛飾北斎です。
また、この頃、歌川豊国も台頭してきていました。多くの版元が豊国にアプローチしていました。
勝川春朗、勝川春英
こうした中、蔦屋重三郎が目を付けたのが勝川春朗(後の葛飾北斎)です。既に才能を開花しつつあった春朗を擁して役者絵を発表しました。
ですが、重三郎が満足するには至らなかったようです。春朗は独創性を示しつつも、まだ勝川派という枠内にとどまっていたからだと言われます。
また、蔦屋から春英の役者絵の作品も出ていますが、こちらも勝川派の枠内を乗り越えるには至っていなかったようです。
東洲斎写楽の登場
こうした中、ついに蔦屋重三郎が見つけ出したのが東洲斎写楽です。では、写楽は一体どのように浮世絵界に現れたのでしょうか?
写楽のセンセーショナルな出現
写楽の作品が最初に発表されたのは寛政六年(1794年)の5月です。この写楽の登場は実にセンセーショナルなものでした。
通常、浮世絵師の場合、挿絵など小さな仕事をコツコツと積み重ね、徐々に実力が認められていく…と言った経過をたどります。しかし、写楽は違いました。
全く無名の絵師であるにもかかわらず、デビュー作品は大判雲母摺で30種近くの作品を一挙に売り出すというものでした。そもそもこれだけの数を一度に売り出すのも異例でした。ここに蔦屋が東洲斎写楽を擁して一気に役者絵の世界を席巻しようという意気込みが見られます。
これは江戸の役者絵の世界に切り込む蔦屋の周到なマーケティング戦略だったと言えます。当時、江戸の人々は「東洲斎写楽って誰?」という話題で持ちきりだったのではないでしょうか?
これこそが、まさに蔦屋の戦略だったのでしょう。
東洲斎写楽の活躍の時期と区分
寛政六年(1794年)の5月にセンセーショナルにデビューした東洲斎写楽ですが、写楽とは一体何者なのかという点をめぐって、多くの人々が論争をしてきました。
人々の興味をかき立てるのは、写楽のセンセーショナルな登場と同時にわずか10か月ほど活動した後、忽然と姿を消したことにもよると思われます。
ここでは、写楽の短い活躍の時期を区分してみます。
第一期
寛政六年(1794年)の5月に一気に出された役者絵作品は都座の「花菖蒲文禄曽我」の11図、桐座の「敵討乗合噺」の7図、河原崎座の「恋女房染分手綱」の10図から成ります。
これらは大首絵からなり、有名俳優だけでなく、広範な役者を取り上げてます。このデビュー時の作品は写楽の芸術性が最も現れた作品群であり、代表作とされているものが多いです。
第二期
デビュー同年の7、8月に出されたの第二期の作品は30図以上から成ります。
具体的には都座の「けいせい三本傘」の雲母摺の大判4図と細判13図、河原崎座の「二本松陸奥生長」と「桂川月思出」の雲母摺の大判2図と細判8図、桐座の「神霊矢口の渡」と「四方錦故郷旅路」の雲母摺の大判2図と細判9図です。
第一期の大首絵とは異なり、気に入った型やポーズを描いた大判と細版の全身図による多彩な作品群から成ります。
第三期
第三期は同年11月に出されたものです。この11月というのは歌舞伎界にとっては重要で、顔見世興行が行われる歌舞伎界が最も活気づく月です。
当時、役者の契約は11月から翌年10月までの契約となることから、11月は役者が交代して、新しい顔ぶれが披露される場となります。
通常、浮世絵界で役者絵が売り出される時期は、この顔見世興行を狙った11月か、あるいは正月というのが相場です。そういう意味では第一期と第二期の写楽作品の大規模な販売はかなり異例だったようです。
その意味でこの第三期は蔦屋が写楽を通じて築こうとした役者絵界での覇権を目指す重要な時期だったと言えます。
第三期の構成
第三期の作品数はなんと64図で、第一期や第二期と比べても倍増の勢いです。蔦屋がいかに力を入れていたかわかります。
この64図は3つに分類されています。すなわち、役者絵の細判全身図が47図、間判大首絵が11図、追善絵が間判(2枚組)1図、相撲絵が大判(3枚組)1図、間判1図です。
役者絵は河原崎座の「松貞婦女楠」の細判14図と間判2図、都座の「閨訥子名歌誉」の細判16図と間判2図、同じく都座の「花都廓縄張」の間判3図、桐座の「男山御江戸盤石」の細判17図と間判4図から成ります。
これらの制作順に関して、松木寛氏は「松貞婦女楠」→「閨訥個名歌誉」→「男山御江戸盤石」の順であったと指摘しています。
第三期の特徴として、描く役者が人気役者に集中していることが挙げられます。また、第二期の背景が単色で塗りつぶしていたのに対し、第三期では背景や装飾品、衣装の文様表現等、説明的かつ装飾的要素が加えられています。
芸術性の衰退
第三期には多くの作品が売り出されていますが、以前に見られた写楽作品の芸術性が急速に衰退していると指摘されています。この短い期間にこうした状況が生じたことについては、様々な見解があります。
見立方式の採用
役者絵を描く場合、二つの方式があったとされています。一つは中見、もう一つは見立です。
中見というのは歌舞伎の舞台を直接見て、それを絵にする方法です。それに対して、見立というのは、実際に舞台を見ずに描く方法です。
見立の場合、舞台を見ていないわけですから、何らかの手本を利用して、それをヒントに描くしかありません。
第一期と第二期は写楽自身、舞台を見て描いた。つまり、中見方式で作品を仕上げたわけですが、11月に新しく始まる顔見世に合わせて販売する必要がある第三期では見立方式を取らざるを得ません。
そのため、勝川派の作品など、他の作品をヒントにして描いた、悪く言えば真似て描くことになったわけです。これが写楽の独創性を大きく削ることになった要因の一つだと言えます。
つまり、歌舞伎の舞台を見て描くことが得意な写楽に、舞台を見ずに描かせたことが、写楽の独創性を削ると同時に、制作意欲自体を奪うことになったのではないかということです。
代作の混入
写楽の作品の中で第三期の間判大首絵と第三・四期の三種の相撲絵について、松木寛氏は人物の耳の形から、写楽の描いたものではないとしています。
しかし、それは後世に描かれた贋作ではなく、蔦屋重三郎が出版したものだとし、それは写楽自身が写楽作品の特徴をまねることができる替え玉を使ったとみています。
なぜ、そんなことをしたのかというと、11月の顔見世興行に合わせて販売しなければならず、60以上の作品を引き受けている写楽はそれを実現できる余力がなく、やむなく代作者を立てたとしています。
そのため代作分は駄作ぞろいということになります。
以上のような要因から、第三期の作品は芸術性が失われたものが多くなったと考えられています。
東洲斎写楽の退場
第四期
第三期の失敗、これを取り戻すべく、寛政七年の正月に向けて、蔦屋はもう一度、写楽に役者絵、相撲絵、武者絵などを描かそうとします。しかし、写楽にとって失敗の後遺症は一時的なものではなかったようです。
結局、計画は中止されたようで、わずかな作品を発表しただけで、写楽は浮世絵界から姿を消すことになります。
蔦屋の役者絵への挑戦は成功?失敗?
東洲斎写楽という天才を発掘して、役者絵の世界に殴り込んだ蔦屋重三郎の挑戦は最初の成功を経た後、短期間のうちに瓦解してしまいました。
蔦屋の挑戦は成功だったのか、失敗だったのか、いろんな見方があるでしょう。ですが、二人のパートナーシップが写楽という存在を世に残した功績は大きいと言えるでしょう。
参考文献
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