蔦屋重三郎の版元事業の出発点となったのが、吉原に開店した店です。そこでは鱗形屋が出していた「吉原細見」などの小売りをしていました。まだまだ駆け出しの蔦屋にとって、鱗形屋孫兵衛は仰ぎ見る存在でした。
2025年のNHK大河ドラマの「べらぼう」では、この鱗形屋孫兵衛を片岡愛之助が演じています。
ここでは鱗形屋孫兵衛について解説していきます。
鱗形屋 三つ鱗紋
鱗形屋孫兵衛とは
鱗形屋は17世の半ばごろに創業された老舗の地本問屋です。姓は山野氏で、鶴鱗堂と号しました。
日本橋の大伝馬町三丁目に店を構えました。
初代は加兵衛、二代目は三左衛門、三代目以降は孫兵衛と称しました。
鱗形屋創業時の出版界
徳川家康が江戸に拠点を定め、その後、将軍職を世襲することに成功しました。それにより、江戸が大発展していくことになります。
しかし、政治的な状況に対し、文化の面ではまだまだ京都や大阪といった上方が主流の位置を占めていました。出版界は完全に京都が牛耳っている状況で、江戸の本屋は京都の大手版元の支店が多くを占めていました。
江戸の生え抜きの書肆としては17世紀半ばである承応頃の創業と言われる松会市郎兵衛が最初だと言われます。彼は徳川家御用書物屋でもありました。
この松会市郎兵衛に次ぐのが万治年間に創業した鱗形屋だと言われます。鱗形屋は江戸で出された本、いわゆる地本である草双紙の大手版元として知られていました。
因みに草双紙の最初の形態である赤本は鱗形屋の草案だと言われています。
このように鱗形屋はまさに江戸の本屋としては老舗中の老舗だったと言えます。
鱗形屋の定番商品「吉原細見」
延享2 年[1745]に鱗形屋から出された「吉原細見」
遊郭である吉原の情報が記載されている本が「吉原細見」です。吉原に対する情報が載っている、実務的な本である吉原細見は爆発的に売れるものでありませんが、毎年、一定数の販売が期待できる定番商品でした。
この吉原細見の出版は江戸前期の貞享(じょうきょう)年間(1684~1688年)まで遡ると言われ、いくつかの版元が出版していました。
その後、元文三年(1738年)からは山本久左衛門と鱗形屋の2軒のみとなり、さらに宝暦八年(1758年)からは鱗形屋が独占的に販売するようになりました。
しかし、安永四年(1775年)に鱗形屋の手代が引き起こしたトラブルにより、吉原細見が出版できなくなると、蔦屋重三郎や小泉忠五郎らが参入。
その後、鱗形屋の吉原細見の出版は再会されましたが、徐々に蔦屋にとって代わられ、天明三年(1783年)以後は鱗形屋はこの分野からは撤退しました。
恋川春町「金々先生栄花夢」の大ヒット!
江戸の草双紙のレベルを一気に引き上げたと言われる黄表紙の第一号が恋川春町によって書かれた「金々先生栄花夢」(きんきんせんせいえいがのゆめ)です。
この作品は安永四年(1775年)に出されましたが、それを出版したのが、何を隠そう鱗形屋孫兵衛です。
恋川春町作・画「金々先生栄花夢」
江戸文学史上、画期的な作品であると同時に、大ヒット作品となり、その後、続々と黄表紙が出版されました。鱗形屋孫兵衛は時代を感じ取るマーケティング力にも長けていたことを示しています。
鱗形屋の衰退
江戸の地本問屋としては有数の老舗であり、しかもマーケティング力も持っていた鱗形屋はその後、衰退していきます。盛者必衰とはいえ、なぜ鱗形屋は衰退してしまったのでしょうか?
重版事件
まず、挙げられるのは先ほども述べた安永四年(1775年)の手代が引き起こしたトラブルです。これは大阪の版元(柏原与左衛門・村上伊兵衛)が出した「早引節用集」を鱗形屋の手代が「新増節用集」という名で勝手に売り出したというものです。
これにより、手代の徳兵衛は家財闕所(財産没収)、十里四方追放となりました。鱗形屋も20貫文の罰金となりました。金銭面だけでなく、信用面での失墜も大きかったようです。
黄表紙出版数の激減
安永四年(1775年)に出した黄表紙「金々先生栄花夢」を皮切りに、鱗形屋は恋川春町と朋誠堂喜三二のツートップを擁して、続々と黄表紙を出版しました。
出版される黄表紙のうち、鱗形屋が占める割合は三分の一から半数以上を占めていました。しかし、安永八年(1779年)には41種の内、鱗形屋の商品はわずか6種に減りました。そして、翌年にはゼロになったようです。
これは鱗形屋の力が衰退していたことを示しています。
謎の大事件
こうした中、鱗形屋にとって決定的な大打撃が起こりました。ですが、その中身は詳しくは知られていません。それは大名や旗本といった権力層がかかわっていたことで、内容を詳しく書き残すことができなかったからです。
太田南畝「絵草子評判記」
ですが、上記の太田南畝の絵草子評判記に、かなり内容を脚色してぼかしているものの、事件の顛末が記載されています。この事件のおおよその内容は次のようなものだったようです。ある家の用人が主人の家のお宝を遊興のために質入れし、鱗形屋がその仲介をしていたのではないかと考えられています。
黄表紙の激減から、この事件は安永七年に起こったのではないかと想定されています。これにより、安永八年、九年にほとんど黄表紙が出版されなかったのです。
これにより、鱗形屋孫兵衛は一時所払い(追放)の刑を受けていたようです。こうしたトラブルが重なったことで、老舗の地本問屋、鱗形屋は業界から消えていったようです。
参考文献
柏崎順子「鱗形屋」
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