蔦屋重三郎と喜多川歌麿

蔦屋重三郎

喜多川歌麿と言えば、浮世絵師を代表する一人です。この歌麿を世に出す上で、蔦屋重三郎は重要な役割を果たしました。その証拠に初期の頃の代表作の多くを蔦屋が扱っています。ここでは、蔦屋と歌麿の関係を見ていきます。

蔦屋と歌麿の関係

蔦屋重三郎の戦略と若手の発掘

出版を手掛ける蔦屋にとって最も重要なのは作家と絵師の確保でした。こうしたクリエイターの確保が売り上げを上げるために必須の課題でした。

絵師に関しては、起業当初、当時の浮世絵界の重鎮だった北尾重政などを頼りました。しかし、出版界に進出していくにあたって、新たな才能を発掘していくことも必要でした。

そのため重三郎は才能ある若手の確保を意識していたと思われます。では、どのような方法を使ったかというと最初は北尾重政の弟子など、北尾重政の紹介というラインを使っていたようです。

北尾重政の弟子には北尾政演(まさのぶ)、北尾政美(まさよし)などがいました。また、重政は喜多川歌麿も弟子同然に可愛がっていました。ですから、重三郎と歌麿の関係は北尾重政を通じたものだと思われます。

初期の歌麿との関係

明和七年(1770年)に出された絵入り俳書「ちよのはる」に石要という名で挿絵を描いていますが、安永四年(1775年)に北川豊章の名で浮世絵界に本格的にデビューした喜多川歌麿は若いころから活躍の痕跡が見いだせます。最初期は西村屋という版元から多くの作品を出しています。

ですが、当時、西村屋が重視していたのは歌麿より一歳上の鳥居清長でした。清長の美人画は天明時代に一世を風靡し、現在でも、世界的にも評価されています。

その後、歌麿は天明元年(1781年)に蔦屋から出された黄表紙「身貌大通神略縁起」の挿絵を描きますが、この頃から蔦屋とのビジネス上の関係が始まります。その際、名を歌麿に改めています。

若い才能を求めていた重三郎にとって、歌麿は魅力的だったと思われます。

上野忍ヶ岡での宴

天明二年(1782年)に歌麿は上野の忍ヶ岡に戯作者や浮世絵師を招いて宴を開いています。出席者には太田南畝や恋川春町を始め、そうそうたる人々がいます。

若手のまだまだ世に知られていない浮世絵師であった歌麿がなぜ、こうした宴を開けたのかというと、バックにスポンサーである蔦屋重三郎がいたからだとされています。

重三郎は歌麿を売り出すために、こうした関係者を招いた宴を企画したと考えられています。そうであるなら、いかに歌麿の才能を買っていたのかがわかるエピソードです。

天明期の歌麿

後に美人画で一世を風靡する歌麿ですが、天明期にはこの分野では鳥居清長の後塵を拝していました。蔦屋も北尾政演と歌麿を擁して、この分野に挑戦しようとしましたが、鳥居清長の壁は厚かったようです。

天明の初めの頃、蔦屋重三郎は歌麿よりも、むしろ北尾政演を推していたようです。ただ、政演が戯作者、山東京伝として活躍するようになり、浮世絵より徐々に戯作のほうに比重を置くようになったようです。

そうした中、歌麿が浮上していくことになります。

蔦屋と歌麿の蜜月時代

狂歌絵本

天明の頃、狂歌が大ブームとなりましたが、蔦屋はそうした文学と絵画を融合させた狂歌絵本という機軸で仕掛けます。

天明時代の美人画は鳥居清長が席巻していましたが、重三郎は歌麿を同じ土俵ではなく、狂歌絵本という違う土俵で勝負させます。

この分野で蔦屋と歌麿のコンビは見事に成功します。これは、いよいよ歌麿の本領が発揮される舞台への序曲だったと言えます。

歌麿の大首絵美人画の登場

天明末から寛政時代に入ると、いよいよ歌麿の芸術が絶頂期に向かっていきます。歌麿の浮世絵と言えば、やはり大首絵の美人画が有名です。この時期、それが登場します。

寛政の改革で痛手を受けていた蔦屋にとって、美人画のような一枚摺の版画はコスト的な面からも有望な商品だったようです。また、遊女絵は妓楼の宣伝にもなることから、妓楼がスポンサーになるという側面もありました。

こうした歌麿の才能と蔦屋のビジネス的な思惑がマッチしたことが、寛政時代の歌麿の芸術が開花した要因の一つと言えます。

寛政三年から五年にかけて、蔦屋と歌麿は蜜月時代を謳歌したようです。

蔦屋と歌麿の関係悪化

こうした蔦屋と歌麿の蜜月関係は寛政五年末から六年にかけて、解消されるようになります。それに伴い、歌麿の作品は他の版元から出されるようになります。

その頃、蔦屋が仕掛けたもう一人のスター、東洲斎写楽が出現します。蔦屋がこの写楽に傾倒することで、歌麿との関係が疎遠になったのか、あるいは歌麿との間がぎくしゃくすることで、写楽へと傾倒していくのかは不明です。

ですが、いずれにしろ、この時期、蔦屋と歌麿の関係が悪化します。

蔦屋と歌麿の関係修復

その後、蔦屋と歌麿の関係は完全に切れたわけではなく、蔦屋から歌麿の作品が刊行されていることから、一定の関係を維持し続けたと言えます。

但し、昔のように蔦屋の専属と言った位置からは程遠く、歌麿作品の出版数において他の版元より優位に立っていたわけでありませんでした。

こうした中、寛政九年(1797年)に蔦屋重三郎は死去します。一方、歌麿は文化三年(1806年)に亡くなります。

参考文献

蔦屋重三郎: 江戸芸術の演出者

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