べらぼう 宿屋飯盛(やどやの めしもり)

狂歌師

狂歌師、宿屋飯盛(やどやの めしもり)は天明狂歌の四天王の一人として知られています。

2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」では、この宿屋飯盛役をピースの又吉直樹が演じています。

ここでは宿屋飯盛について説明します。

宿屋飯盛とは

宿屋飯盛の略歴

本名を糠屋七兵衛といい、後に石川五郎兵衛と改めました。父親は浮世絵師として著名な石川豊信(旅籠屋糟屋七兵衛)で、宝暦三年(1754年)にその五男として江戸神田で生まれました。

王子稲荷前の男女 石川豊信画

出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-10569-958?locale=ja)

狂歌師のほか、戯作者、国学者として知られますが、国学の方面では石川雅望として知られていました。

字は子相といい、六樹園、五老山人、逆旅主人、蛾術斎など多くの号がありました。

狂歌師としては鹿津部真顔(しかつべの まがお)、頭光(つむりの ひかる、つぶりの ひかる)、銭屋金埒(ぜにやの きんらち)とともに天明狂歌の四天王として知られました。特に化政期には鹿津部真顔と狂歌界を二分するほどでした。

生業としては旅籠屋を営んでおり、狂名もそれに由来しています。

宿屋飯盛の狂歌

吾妻曲狂歌文庫 宿屋飯盛編、北尾政演画

吾妻曲狂歌文庫(あずまぶりきょうかぶんこ)は天明六年(1786年)に蔦屋から出版された50人の狂歌師の歌を集めた狂歌集です。絵は北尾政演が担当し、狂歌師を王朝歌人風に描いています。

宿屋飯盛「などてかく わかれの足の おもたきや 首は自由に ふりかへれども」

画本虫ゑらみ 宿屋飯盛撰、喜多川歌麿画 版元:耕書堂蔦屋重三郎

宿屋飯盛 蛙「人つてに くどけと首を ふるいけの かいるのつらへ 水ぐきぞうき」

戯作作品

読本「天羽衣」 六樹園飯盛 作

国学関係の著書

国学関係の書としては雅語用例集である「雅言集覽」や源氏物語の注釈書である「源註余滴」が知られています。

雅言集覽(がげんしゅうらん) 石川雅望 集 関豊脩 補 

『雅言集覽』(国文学研究資料館所蔵)
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/200002923

家財没収、江戸所払い

寛政三年(1791年)六月、宿屋飯盛は家業の旅籠屋に関する件で、同業者14人と共に町奉行所より召喚されます。

この事件は「地方から訴訟のため江戸に出てきた者に、訴訟の便宜を計ると称して、不当な金銭を宿屋が強制した」というものでした。

これは無実の罪だったようで、飯盛は次のような歌を詠んでいます。

身になさぬ 罪とししらば あはれとも みそなはしてよ 天地の神

また、この件に関して飯盛は「とはずがたり」に詳細を書いています。結局、「濡れ衣」を着せられたまま、同年十月に家財没収の上、江戸所払いの刑となりました。

住み慣れた小伝馬町を出た飯盛は元の使用人を頼って江戸郊外の鳴子村に移りました。これにより文化三年(1806年)頃まで狂歌界の表には出なかったようです。

この事件のあった寛政三年は蔦屋重三郎に身上半減の重過料が課され、山東京伝は50日の手鎖の刑に処されます。

粕谷宏紀は、こうした寛政の改革が吹き荒れる中、「この事件もその一環として摘発された」とし、「雅望の文芸活動をこの事件にことよせて弾圧したのではないかと推測」しています。

この事件を契機に上記のように狂歌界から身をひいてましたが、この間、国学を熱心に学び、国学者としての見識を高めたようです。

狂歌界への復帰と俳諧歌論争

寛政三年の冤罪事件は宿屋飯盛の人生に大きな影響を及ぼしましたが、文化四年(1807年)には文芸界への復帰を果たし、文化五年(1808年)には狂歌の著述を始めました。

当時、狂歌界は四天王の一人だった鹿津部真顔が牛耳っていました。真顔は狂歌を俳諧歌と呼び、天明狂歌の革新的な部分を否定して、昔の狂歌の枠内に戻ろうとしていました。

こうした風潮に対し、飯盛は「狂歌は天明の昔に還るべきである」と主張し、真顔と真っ向から対立しました。いわゆる俳諧歌論争です。

真顔の主張は一般の人に受け入れられず、狂歌の衰退をもたらしたと言われています。

宿屋飯盛と蔦屋重三郎

宿屋飯盛は蔦屋重三郎とも関係が深く、上記で述べた「吾妻曲狂歌文庫」など蔦屋から多くの狂歌絵本を出版しています。

また、「喜多川柯理墓碣銘」(きたがわからまるぼけつめい)の撰文を行っており、そこには蔦屋重三郎に関して次のような文章があります。

「志気英邁にして、細節を修めず、人に接するに信を以てす」

意味:人に抜きんでた気性をもち、度量が大きく細かいことにこだわらず、人に対しては信義を尊重する

蔦重を知る人物として宿屋飯盛による貴重な証言と言えます。因みに蔦重が亡くなったのは寛政九年(1797年)ですが、この時期、宿屋飯盛は上記の冤罪事件により、まだ江戸追放の状態でした。

参考文献

粕谷宏紀「石川雅望年譜稿(三)

粕谷宏紀「文化初期の宿屋飯盛と万代狂歌集

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