
天明期、江戸を代表する文人と目されていたのが大田南畝です。戯作や狂歌など様々な分野で文化界をリードします。
2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」では大田南畝役を桐谷健太が演じています。
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ここでは、大田南畝について見ていきます。
大田南畝とは
太田南畝は本名、覃(ふかし)、字は子耕、通称は直次郎でした。しかし、一般的には号である南畝として知られています。その他にもたくさんの号を使っていて、特に蜀山人、四方山人などが有名です。
狂歌の分野で第一人者として活躍しましたが、狂名は四方赤良(よものあから)と言い、こちらもよく知られています。狂詩においては寝惚先生(ねとぼけせんせい)と称しました。
大田南畝像 鳥文斎栄之画

出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-84?locale=ja)
御家人だった太田南畝
太田南畝は寛延二年(1749年)に現在の新宿区に当たる江戸の牛込中御徒町で大田正智の長男として生まれました。生家は幕府の下級役人である御家人の家柄であり、父は御徒(おかち)、いわゆる歩兵の身分でした。
幼少のころから、学問で才能を発揮し、15歳の時には内山賀邸に入門し、国学、漢学、漢詩、狂詩などに精進し、これが後に文人として活躍する土台となりました。
南畝自身も御徒見習いとして勤務するようになりますが、寛政の改革によって始まった、昌平坂学問所での学問吟味という試験を受け、優秀な成績を収めるなどし、寛政八年(1796年)、40半ばを超えた頃、勘定奉行配下の支配勘定という役に付きます。
その後も、大坂銅座や長崎奉行所などにも赴任しています。
このように文人として名声を得る一方、本業である幕府の役人としてもしっかりと勤務していました。しかし、御目見え以上の旗本になることはなく、御家人として生涯を終えています。
処女作 狂詩集「寝惚先生文集」
文人として活躍する太田南畝ですが、その才能は早くから開花していました。文芸での処女作である狂詩集「寝惚先生文集」(ねぼけせんせいぶんしゅう)を発表したのは明和四年(1767年)、南畝が19歳の頃でした。
この本の序は風来山人、つまり、平賀源内が書きました。内容は好評で、当時、評判となったようです。

出典:「寐惚先生文集初編 2巻」(京都大学附属図書館所蔵)
この本の出版に当たっては、同じ内山賀邸の門下であった平秩東作(へづつ とうさく)が、その才を買ったことによるものです。
狂歌界と四方赤良
天明狂歌の三大家
太田南畝の文化への多様な貢献を考えた場合、最も大きな貢献はやはり狂歌と言えるでしょう。南畝は四方赤良(よもの あから)という狂名を使っていました。
南畝が活躍した天明期に江戸では狂歌が爆発的なブームとなりました。天明狂歌という言葉があるように、この時期は狂歌の黄金時代だったと言えます。
※「天明期と狂歌」の詳細はこちらを参照!
この黄金時代を築き上げたのが、天明狂歌の三大家、すなわち唐衣橘洲(からごろも きっしゅう)、四方赤良、朱楽菅江(あけら かんこう)です。
「万載狂歌集」の出版
四方赤良は朱楽菅江と共撰で「万載狂歌集」の出版を企画し、天明三年(1783年)に出版します。この「万載狂歌集」という名称は平安時代末に出された千載和歌集をもじったものです。
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この出版に当たって、四方赤良と三大家の一人、唐衣橘洲(からごろも きっしゅう)との間で対立があったことが知られています。これにより、唐衣橘洲は一時、狂歌界を離れることになります。
※「四方赤良と唐衣橘洲の対立」の詳細はこちらを参照!
画本虫ゑらみ 宿屋飯盛(石川雅望)撰、喜多川歌麿画
毛虫 四方赤良「毛をふいて きずやもとめん さしつけて きみがあたりにはひかかりなば」

文芸評論家としての太田南畝
太田南畝は現代で言えば、文芸評論家でもありました。例えば、黄表紙の評判記である「菊寿草」や「岡目八目」などを出版しています。
「岡目八目」 太田南畝

太田南畝の辞世
天明期を代表する文人として活躍した太田南畝は、江戸で化政文化が花開いていた文政六年(1823年)にこの世を去ります。70過ぎまで生き、当時としては長命だったと言えるでしょう。
亡くなった直接の原因は登城の際に転んだこと、つまり、高齢者の転倒事故ということになります。
太田南畝は以下のような辞世の歌を残しています。
今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん
多くの人の死を見てきた人でも、なかなか自分自身の死というのは実感できないものですよね。それを詠いあげたまさに狂歌師、四方赤良らしい辞世の歌だと思います。
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