同じ版元ながら、蔦屋重三郎とは分野が違っても、同じく革新的な行動を見せたのが須原屋市兵衛です。2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」では里見浩太朗が須原屋市兵衛役を演じています。
ここでは、須原屋市兵衛について解説します。
須原屋市兵衛とは
須原屋と言えば、その総本山である須原屋茂兵衛が江戸随一の書物問屋として知られていました。その茂兵衛店からのれん分けされた店がいくつかあり、そのうちの一つが申椒堂と号した須原屋市兵衛の店です。
店は日本橋内(室町三丁目、同二丁目、本石町四丁目、本町二丁目、北室町三丁目西側など)を転々とし、三代まで続いたとされています。
様々な書物を出版していますが、かなり攻めた内容の出版物も出しています。
林子平の書物出版とその影響
寛政の三奇人と称された林子平は「三国通覧図説」「海国兵談」を自ら著しました。
三国通覧図説
三国通覧図説は天明五年(1785年)に須原屋市兵衛が出版したもので、内容は日本に隣接する朝鮮・琉球・蝦夷の三国について解説した本です。
林子平著「三国通覧図説」掲載図 須原屋市兵衛発行
海国兵談
「海国兵談 」は海防の必要性を説いています。ただ、幕府の海防の不備を指摘していることから、どこも出版してくれず、子平自ら版木に彫って、須原屋市兵衛のところから自費出版の形で刊行しました。
天明六年(1786年)に書きあがってましたが、出版できたのは寛政三年(1791年)でした。
しかし、幕府に問題視され、翌年には版木、製本共に没収され、仙台の兄の家で蟄居を命じられました。
そして、寛政五年(1793年)に不遇のまま亡くなりました。
須原屋市兵衛への処分
この海国兵談に関する幕府の処分により、既刊の『三国通覧図説』も絶版になったうえ、須原屋市兵衛に対しては重過料(多額の罰金)を科せられました。
幕府=政府に対する批判がご法度であった時代、海防について説いた先駆的な著書に対してこうした処分が科されたわけです。しかし、幕末にペリーをはじめ列強が押し寄せるようになって、その危機が現実化しました。
林子平には先見の明があったことが立証され、安政年間になると、海国兵談の発行も許されるようになりました。
杉田玄白「解体新書」の出版
安永三年(1774年)に杉田玄白や前野良沢らによって翻訳された解剖学書「解体新書」は画期的な出版でした。
これは日本初の本格的な欧米の翻訳書であり、初の本格的な西洋医学書の翻訳書であると同時に、西洋科学という点でも初の翻訳書でした。
この出版は、西洋医学はもちろん、蘭学の興隆に寄与したと言われています。この本の出版は須原屋市兵衛によって行われました。
杉田玄白、前野良沢らによって訳された「解體新書」
この本の出版に関しても、幕府に咎められるリスクがありました。そのため、杉田玄白の友人で将軍の侍医であった桂川甫三を通じて、将軍や大奥にも本が献上されました。幸いこの出版に関しては幕府によるお咎めはありませんでした。
須原屋市兵衛が出版した著者及び書物
平賀源内
天下の奇才、平賀源内の書物も出版しています。
平賀源内「物類品隲」
平賀源内「火浣布略説」
森嶋中良
森嶋中良は奥医師であった桂川甫三の次男として生まれ、医者、蘭学者、戯作者として活動しました。平賀源内の門人であり、竹杖為軽(すがる)の狂歌名でも知られています。
須原屋市兵衛はこの森嶋中良の出版も行っています。
森嶋中良「琉球談」 須原屋市兵衛版
鍬形蕙斎(北尾政美)
浮世絵師の北尾重政の弟子、北尾政美は別名、鍬形蕙斎として津山藩お抱え絵師として活躍しました。
須原屋市兵衛のところから、下記の魚貝譜をはじめ、絵手本などが出版されています。
鍬形蕙斎(北尾政美)「魚貝譜」
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