「逆賊の幕臣」 小栗上野介忠順(おぐり こうずけのすけ ただまさ)

逆賊の幕臣

2027年のNHK大河ドラマ「逆賊の幕臣」では松坂桃李が主人公の小栗上野介忠順を演じています。薩長を中心とする倒幕側が主人公の場合、敵役で描かれることの多かった小栗忠順を幕府側から見るとどうなるのか?幻に終わった幕府側によるもう一つの近代化の構想も見てみたいですね。

小栗忠順とは

2500石の旗本、小栗家に生まれる

小栗忠順は文政十年(1827年)徳川幕府の旗本、三河小栗氏の家に生まれました。知行は2500石あり、旗本の中でも上級の部類でした。家紋は丸に立浪です。

母のくに子は忠順にとって祖父に当たる小栗忠清の娘として生まれました。そして、旗本、中川家から婿養子として小栗忠高を迎えました。父、忠高は持筒頭や新潟奉行などの役職に就いています。

文武に励む

小栗家の屋敷は駿河台にあり、その屋敷内には朱子学者、安積艮斎の私塾、「見山楼」がありました。

忠順も入門しています。ここで栗本鋤雲などと知り合います。

剣術は幕末の三剣士の一人、直心影流島田派の島田虎之助に師事しました。その後、直心影流藤川派の藤川整斎の下で剣術に励み、免許皆伝となっています。

また、武術家、兵学者として名高かった窪田清音(すがね)に入門し、柔術と山鹿流兵学を学んでいます。砲術に就いては幕府の砲術を担う存在となる田付主計(たつけ かずえ)に師事しています。

このように文武に励み、後に活躍するための土台が形成されていきます。

出世コース:書院番士から目付へ

忠順は上級の旗本であったことから、能力次第で江戸幕府を支える幹部職への登用が可能な位置にいたと言えます。事実、弘化四年(1847年)に出世のための最初の登竜門と言える両番の一方、書院番に任じられています。

嘉永二年(1849年)、23歳の時、林田藩一万石の領主、建部政醇の姫である道子を妻として迎えています。小栗は期待の若手旗本と思われていたのかもしれません。

安政二年(1855年)、新潟奉行をしていた父、忠高が任地で亡くなり、家督を継ぎます。

安政四年(1857年)には使番となります。使番は役高1000石の、布衣役でした。布衣役というのは官位で言うと六位相当ということになります。安政五年の大成武鑑には「御使番」の項に「小栗又一」の名が記されています。

目付就任と小栗豊後守

安政6年(1859年)には目付に就任します。目付は使番と同様、役高1000石の布衣役ですが、出世コースの花形と言える役職です。

それだけでなく、忠順は遣米使節の目付に抜擢されました。この抜擢には大老、井伊直弼の意向があったようです。

前述のように目付は布衣役、つまり六位相当の役職ですが、アメリカへ派遣されるに当たり、小栗は五位相当の諸大夫とされることになります。箔が必要と思われたのでしょうか。これにより、豊後守を名乗り、小栗豊後守忠順となります。

父、小栗忠高もなれなかった五位の諸大夫の官位を持ったことになります。

万延元年遣米使節

目付として派遣

万延元年(1860年)に幕府は開国後はじめてアメリカへ使節を派遣しました。この万延元年遣米使節は安政五年(1858年)に結ばれた日米修好通商条約の批准書の交換を目的としたものでした。

この使節は外国奉行兼神奈川奉行の新見豊前守正興が正使となり、同役の村垣淡路守範正が副使でした。小栗忠順もナンバー3のポジションで目付として同行しました。目付は監察を行う役職ですが、それ以外にアメリカと貨幣交渉を行うと言う密命も帯びていました。

以下の写真はワシントンのホテルで撮られたものです。右が小栗忠順、真ん中が正使、新見正興、左が副使、村垣範正です。

東洋文化協会 編『幕末・明治・大正回顧八十年史』第2輯,東洋文化協会,昭和10年. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/8797958 (参照 2026-10-24)

遣米使節使節の行程

現地へはハワイを経由して、サンフランシスコからパナマまで太平洋横断は軍艦ポーハタン号で向かっています。勝海舟らの乗った随伴艦の「咸臨丸」もサンフランシスコへ向けて出向しています。

外輪フリゲート艦 ポーハタン号

当時はパナマ運河がなく、大西洋岸に出るために、パナマから大西洋岸のコロンまで、蒸気機関車に乗りました。コロンからは米国海軍フリゲート艦「ロアノーク号」に乗り、その後、外輪蒸気船「フィラデルフィア号」に乗り換えてワシントンに入っています。

帰りはワシントンからニューヨークまで機関車と舟で行き、そこから米国海軍フリゲート艦「ナイアガラ号」に乗りました。そして、現在のアフリカのアンゴラ、インドネシア、香港を経由して戻りました。つまり、世界を一周する形で帰国しました。

小栗忠順の遣米使節従者

正使、副使、目付にはそれぞれ9人の従者が同行していました。忠順の従者の一人、肥後藩士の木村鉄太は「航米記」という旅行記を記しています。そこには以下のように従者の氏名が記述されています。

このうち、「吉田好三」は用人、つまり大名家で言えば家老に当たるような重臣です。「江幡勇蔵」(荒川祐蔵)は主君、小栗忠順と最期を共にした人物です。塚本真彦は妻、道子付きの従者として建部家から迎えられた人物です。英語、数学等に通じていました。官軍に忠順の養子、忠道とともに処刑されています。佐藤藤七は小栗家の所領のあった上野国権田村の名主です。農民として初めて世界一周を成し遂げました。

アメリカ訪問

ワシントン海軍造船所

ワシントンに入った遣米使節はその玄関口ともいえるワシントン海軍造船所を見学します。近代的な造船施設を見た小栗はその高度さに驚愕し、日本にもこうした施設をつくる必要性を実感します。そして、それは幕末から明治にかけて、横須賀製鉄所とそれを継いだ横須賀造船所として結実します。

日米修好通商条約の批准書の交換

首都ワシントンD.C.では当初の目的であった批准書の交換を行います。

以下の図は、アメリカの新聞に載ったホワイトハウスでのアメリカ第15代大統領、ジェームズ・ブキャナンとの謁見の場面です。中央やや左の頭を下げている3人が正使、副使と目付の小栗忠順です。右側で向かい合っているのが大統領です。

史料:東洋文化協会 編『幕末・明治・大正回顧八十年史』第2輯,東洋文化協会,昭和10年. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/8797958 (参照 2026-10-24)

同じくホワイトハウスでの大統領主催の歓迎会の場面です。

史料:東洋文化協会 編『幕末・明治・大正回顧八十年史』第2輯,東洋文化協会,昭和10年. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/8797958 (参照 2026-10-24)

貨幣交渉

訪米の目的の一つとして、小栗忠順には貨幣交渉をすると言う密命を帯びていました。というのは貨幣の交換比率の問題から、日本側が3倍ほど損をする状態となっており、大量の小判が海外へ流出する事態が生じていたからです。

小栗とアメリカ側の交渉は合意に至りませんでしたが、小栗の交渉力はアメリカで「タフ・ネゴシエーター」として評価されました。

結局、幕府は使節の帰国前に金の含有率が低い万延小判を発行しましたが、これは激しいインフレをもたらすことになりました。

渡米の経験と昇進

こうして小栗忠順は当時のアメリカを実際にその目で見る機会に恵まれました。これによりアメリカ大統領と謁見するなど、鎖国下の日本人では考えられない経験ができました。特に欧米との技術の差を目の当たりにしたことは、その後の動きにも大きく影響したはずです。

帰国後、アメリカ訪問の功により、200石加増され、家禄が2700石となりました。また、外交を担当する外国奉行に任ぜられました。幕末に設けられた新しい役職ですが、大坂町奉行や京都町奉行をはじめとする各地に置かれた遠国奉行よりも格上とされていました。

外国奉行

外国奉行在任時、ロシアの軍艦が対馬に来航し占拠するという、いわゆるロシア軍艦対馬占領事件が発生します。ロシアによる極東の根拠地を求めた行動でしたが、小栗忠順も外国奉行としてこれに対応しました。

そもそも対馬は宗家の領地であるため、幕府の対応には限界がありました。従って、小栗は対馬を幕府の直轄地とすることを主張しました。また、正式な外交によって処理することや、国際世論に訴えるなど、いくつかの献策を行いましたが、採用されませんでした。

これにより、外国奉行を辞任しています。

勘定奉行 小栗上野介

外国奉行を辞した後も、小栗忠順は様々な要職に就きます。江戸の南町奉行に就任していたこともありますが、勘定奉行としての活躍が長かったと言えます。江戸幕府において(江戸)町奉行、勘定奉行、寺社奉行は三奉行と言われる要職でした。寺社奉行は大名が就く役職であるため、旗本が就く役職として町奉行や勘定奉行は高位の役職でした。

文久二年(1862年)に勘定奉行に就任しますが、この頃、豊後守から上野介に名乗りを変えています。以下は慶応元年の「有司武鑑」です、勘定奉行の項には小栗上野介をはじめ、6人の奉行の名前が記載されています。

横浜製鉄所の建設

文久三年(1863年)、小栗は製鉄所建設を提案しています。かつてアメリカのワシントン海軍造船所を実地で見たことで、近代化には製鉄所が必須であると理解していたのでしょう。この案は採用され、慶応元年(1865年)に横浜製鉄所の建設が始まります。ここの責任者にはフランス人のレオンス・ヴェルニーを招いています。

こうしてフランスとの関係を深めていきますが、それは1861年から1865年にかけてアメリカでは南北戦争が起こったことで、アメリカの援助が難しいと言う事情がありました。一方、イギリスは薩摩との関係を深めます。

軍隊の近代化

軍隊の近代化が必須と考えていた小栗はフランスに習ってそれを行います。大量の兵器を買い付けるとともに、フランス軍事顧問団を招聘します。

また、小銃や大砲、弾薬などの国産化により軍事力の強化も図っています。

幕府軍将校

勘定奉行のイメージが強い小栗ですが、陸軍奉行並や海軍奉行並、軍艦奉行、歩兵奉行など幕府軍の将校としての要職にも就いています。

大政奉還後、鳥羽伏見の戦いがはじまる中、新政府軍と徹底抗戦する意向だった小栗忠順は箱根で陸と海から新政府軍を迎え撃つ建策を述べました。しかし、15代将軍、徳川慶喜は恭順することに決めました。その結果、勝らによる江戸城無血開城が実現します。

小栗忠順の最期

そうした中、小栗忠順は役を解かれました。その後、家族である母、くに子、妻、道子、養女の鉞子(よきこ)、その婿として養子となった忠道の他、家臣と共に、所領のあった上野国権田村に行き、そこで静かに隠棲することとします。

しかし、幕府の要職に就き、主戦派であった忠順に危険が迫る可能性を感じていた小栗家の元中間で、三井家の実力者であった三野村利左衛門は千両箱とともに忠順に米国への亡命を勧めます。しかし、忠順はそれを断ります。

その後、三野村の予見通り、忠順は東善寺にいるところを新政府軍に捕らえられ、翌々日に家臣、荒川祐蔵、大井磯十郎、渡辺太三郎ともども、権田村の近く烏川の水沼河原で斬首されてしまいました。

また、他意は無い旨を申し述べるために使者として出向いていた養子、小栗忠道も翌日に高崎城下で家臣3人と共に処刑されます。

残された家族

忠順とともに隠棲していた母のくに子、妻の道子、養女の鉞子らは忠順の勧めに従って、家臣と共に信濃・越後を経て会津へと落ち延びます。道子は子どもを授かっており、身重の体での逃避行でした。

無事、会津にたどり着いた道子はそこで、娘の国子を出産します。その後、明治二年(1869年)に東京に戻った小栗家の女性はかつて忠順に仕えていた三野村利左衛門が世話をしました。

因みに養女の鉞子は静岡に行った後、消息が途絶えます。忠順亡き後、娘の国子が成人するまで、小栗家は亡くなった養嗣子の弟で、駒井朝温の三男、忠祥が継ぎました。

小栗国子

父亡き後に生まれた国子はその後、母の道子も亡くなった後、親戚の大隈重信に引き取られました。大隈重信の妻、綾子は小栗忠順の父、忠高の妹の娘、つまり、忠順からみると従妹に当たります。綾子は幼いころ、駿河台の小栗家で暮らしていたこともありました。

その後、明治二十年(1887年)に大隈の勧めで矢野龍渓の弟・貞雄を婿にして小栗家を再興しています。その媒酌人は前島密夫妻でした。

終わりに~明治の父~

小栗忠順の行った政策を見ると、横浜製鉄所の建設や軍隊の近代化など、明治期の殖産興業、富国強兵を先取りしたものだったと言えます。それが明治の父の一人と言われる理由です。

同じく主戦論を主張し、北海道で最後まで戦った榎本武揚はその後、許され、明治政府の大臣等の要職を歴任しています。小栗忠順も命をつないでいれば、明治の世において、活躍したと思われます。残念な最期だったと言えます。

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