2027年のNHK大河ドラマ「逆賊の幕臣」では松坂桃李が主人公の小栗上野介忠順を演じています。
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小栗忠順とは
小栗忠順は文政十年(1827年)徳川幕府の旗本、三河小栗氏の家に生まれました。知行は2500石あり、旗本の中でも上級の部類でした。こうした生まれが幕府側として活躍する素地となったのは間違いありません。父の小栗忠高も持筒頭や新潟奉行などの役職に就いています。
家の屋敷内には朱子学者、安積艮斎の私塾、「見山楼」があり、忠順も入門します。ここでは栗本鋤雲などと知り合います。その他、様々な学びを経て、学問的にも向上していきます。
また、上級の旗本であった小栗忠順も能力次第で江戸幕府を支える幹部職への登用が可能な位置にいたと言えます。事実、旗本の出世コースである書院番や目付などの役職に順調に就いていきます。但し、通常の目付ではなく、遣米使節目付でした。既に西洋との関係が否応なしに迫っている時代でした。
万延元年遣米使節
万延元年(1860年)に幕府は開国後はじめてアメリカへ使節を派遣した。この使節に小栗忠順も目付として同行した。目付は監察を行う役職ですが、それ以外にアメリカと貨幣交渉を行うと言う密命も帯びていました。
いずれにしても当時のアメリカを実際にその目で見る機会に恵まれたわけです。これによりアメリカ大統領と謁見するなど、鎖国下の日本人では考えられない経験ができました。特に欧米との技術の差を目の当たりにしたことは、その後の動きにも大きく影響したはずです。
帰国後は外交を担当する外国奉行に任ぜられました。幕末に設けられた新しい役職ですが、大坂町奉行や京都町奉行をはじめとする各地に置かれた遠国奉行よりも格上とされていました。
勘定奉行
外国奉行を辞した後も、小栗忠順は様々な要職に就きます。江戸の南町奉行に就任していたこともあります。しかし、勘定奉行として長く活躍しました。江戸幕府では(江戸)町奉行、勘定奉行、寺社奉行が三奉行と言われる要職でした。寺社奉行は大名が就く役職であるため、旗本が就く役職として町奉行や勘定奉行は高位の役職でした。
小栗忠順は勘定奉行として製鉄所の建設や軍備の生産など近代化は推し進めていきます。その際、フランスとの関係を深めていきます。1861年から1865年にかけてアメリカでは南北戦争が起こったことで、アメリカの援助が難しいと言う事情がありました。一方、イギリスは薩摩との関係を深めます。
以下は慶応元年の「有司武鑑」です、勘定奉行の項には小栗上野介をはじめ、6人の奉行の名前が記載されています。

幕府軍将校
また、陸軍奉行並や海軍奉行並、軍艦奉行、歩兵奉行など幕府軍の将校としての要職にも就いています。
大政奉還後、鳥羽伏見の戦いがはじまる中、新政府軍と徹底抗戦する意向だった小栗忠順は箱根で陸と海から新政府軍を迎え撃つ建策を述べました。しかし、恭順することに決めた15代将軍、徳川慶喜は勝海舟の献策を入れて、江戸城無血開城となります。
小栗忠順の最期
そうした中、小栗忠順は役を解かれ、群馬に引きこもり、そこで静かに暮らしていました。忠順に危険が迫る可能性を感じていた小栗家の元中間で、三井家の実力者であった三野村利左衛門は千両箱とともに忠順に米国への亡命を勧めます。しかし、忠順はそれを断ります。
その後、三野村の予見通り、忠順は新政府軍に捕らえられ、翌々日に家臣ともどもそのまま斬首されてしまいました。
同じく主戦論を主張し、北海道で最後まで戦った榎本武揚はその後、許され、明治政府の大臣等の要職を歴任しています。小栗忠順も命をつないでいれば、その後、活躍したと思われます。残念な最期だったと言えます。
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