四方赤良と唐衣橘洲の対立

狂歌師

天明期以降、江戸では狂歌が一大ムーブメントとなる中、その中心人物であった四方赤良と唐衣橘洲の間に対立関係があったことはよく知られています。ここでは、その辺りの事情について探ってみます。

太田南畝と唐衣橘洲

天明狂歌界の両雄

天明狂歌を代表する三大家と呼ばれている人がいます。それが四方赤良こと太田南畝、唐衣橘洲、朱楽菅江の三人です。この内、江戸で初めて狂歌の会を開いたのは唐衣橘洲だったとされ、最初は4、5人程度の集まりでした。つまり、橘洲は天明狂歌の草創期からそれを主導したレジェンドだったと言えます。

この3人はそれぞれ大活躍するわけですが、この内、太田南畝と唐衣橘洲の両雄の間に対立関係が生じました。太田南畝は狂歌はもちろん、それ以外の文芸の分野においても当時を代表する文化人でした。

両者ともに幕臣という共通性がありましたが、この両雄の対立は狂歌が世に広まっていく中で、大きなしこりとなっていました。

南畝と橘洲の対立点

では、この二人の間の対立点はどのようなものだったのでしょうか?

実はこの点について、当時の人々は大体、事情は察知していたようですが、あまり明確にそれを書き残していません。それについて、漠然とした感じで書いているだけです。しかし、以下のような点で対立していたようです。

狂歌に対する考え方の違い

復古的な橘洲と当世風の南畝

唐衣橘洲は温雅なおかしみと整った作風を目指しました。近世初期の貴族風の風流さを理想とし、静かな隠逸な境地の中の楽しみを求めていたようです。

それに対し、太田南畝は当時の人々の中に飛び込んで、機知の赴くままに詠みました。新しい江戸の狂歌を創り出そうとしていたのです。従って、目指すべき作風には大きな違いがありました。

例えば、現代のお笑いを例にすると、古典落語のようなお笑いもあれば、漫才やコントのような現在進行形のお笑いもあるようなものです。

上方文化と江戸文化の対立

さて、江戸時代の文化を見ると、前半は京都、大阪など、上方が文化の中心地でした。これは上方が長年、政治的にも文化的にも日本の中心であったからです。従って、江戸は上方の文化を受け入れるという受動的な立場であり、文化的には言わば、西高東低だったと言えます。

しかし、江戸中期以降、江戸に独自の文化を築きたいという文化の独立運動の機運が起きました。特に後期には新興都市である江戸で文化が花開き、次第に江戸が政治だけではなく文化面でも中心になっていきます。

江戸の二大文化と言われる前期の元禄文化と後期の化政文化がそれを示しています。元禄文化は上方中心、化政文化は江戸が中心でした。

天明期はその中間にあたる時期で、江戸で本格的に文化が栄え始めた時期です。この時期の文化を宝暦・天明文化と呼ぶこともあります。橘洲と南畝の対立の根は実は上方文化と江戸文化の違いに根差しているという見解もあります。

出版を巡る攻防

両者を巡る対立は出版を巡る攻防に現れました。橘洲は天明元年(1781年)に「狂歌若葉集」の編集を企画し、翌年の四月には編集を終えていました。その際、当時、第一人者の呼び声が高い南畝を編集者から外しました。

また、この狂歌集の中で南畝の歌を「すさめがち」と評しています。つまり、この若葉集には反南畝の姿勢が見られると言われています。

こうした動きに対抗して、南畝は朱楽菅江と共撰で「万載狂歌集」の編纂を始めました。そして、天明三年の正月に「狂歌若葉集」(版元近江屋本十郎、前川六左衛門等)と「万載狂歌集」(版元須原屋伊八)が共に出版されました。

狂歌若葉集は現代の狂歌師を歌人別に並べるというオーソドックスなものであったのに対し、万載狂歌集は200人以上の古今の狂歌師を掲載するとともに、歌の内容別に編纂するなど凝った内容でした。

その結果、万載狂歌集の圧勝という結果に終わりました。これにより、橘洲は一時、狂歌界から身を引きました。

対立の原因は誤解?

この対立の原因に対して、橘洲一派が赤良一派を出し抜こうとしたという見方がありますが、そもそも、この頃、橘洲には一派と言えるような人々はおらず、単に自分の考える狂歌を世に示そうとしただけという見解もあります。

その証拠に若葉集において、橘洲は赤良をそれなりに遇しているからです。つまり、赤良側の誤解により、この対立が生じてしまったということです。そこには、万載狂歌集の出版を意図した版元、須原屋伊八側、特に番頭迂平などが対立を焚き付けた可能性もあるようです。

南畝と橘洲の和解

前述のように、狂歌に対する考え方の違いや出版を巡る攻防、あるいは誤解を踏まえた感情面での対立により、橘洲は狂歌界を離れることになりました。

これに対して、両者の和解という課題が狂歌界にあったようです。

天明三年に平秩東作の編集により刊行された「狂歌師細見」では朱楽菅江や元木網の仲介で和解したという記述があるが、実際はまだそこまでは至っていなかったと言われています。

蔦屋による「狂歌評判俳優風」(きょうかひょうばんわざおぎぶり)の刊行

天明五年に版元蔦屋重三郎により「狂歌評判俳優風」が出版されました。これこそが、真の和解を意味するのではないかと言われています。というのも、判者として橘洲、菅江、赤良の三人がそろって登場しているからです。

翌年の天明六年に宿屋飯盛編集で蔦屋から出された「吾妻曲狂歌文庫」では冒頭に尻焼猿人こと酒井抱一が据えられ、その後、四方赤良と朱楽菅江が続いています。そして、多くの狂歌師を掲載した後、最後のトリに唐衣橘洲を配しています。

こうした点から姫路藩主の弟であり、当時の文化界の重鎮だった酒井抱一が仲介した可能性も示唆されています。

同年に平秩東作の編集の下、蔦屋から出された「夷歌百鬼夜狂」(いかひゃっきやきょう)でも序を四方山人(太田南畝)、跋は橘洲が書いています。

これらの出版からも両雄の対立は解消されたと言えるでしょう。

参考文献

石川了「天明狂歌壇の連について : 唐衣橘洲一派を中心に

新版 蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者 (講談社学術文庫)

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