
天明狂歌界を牽引した人物の一人が朱楽菅江です。2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」では、この朱楽菅江役を浜中文一が演じています
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ここでは、朱楽菅江について見ていきます。
朱楽菅江とは
朱楽菅江の略歴
朱楽菅江は本名を山崎景基、後に景貫(かげつら)、通称は郷助でした。元文五年(1740年)に生まれ、寛政十年(1799年)に亡くなりました。また、元文三年(1738年)に生まれたという説もあります。
幕臣で御先手組の与力を務めおり、牛込二十騎町(現在の新宿区東部)に居住していました。武士でしたが、太田南畝と同じく、御目見え以下の御家人でした。
狂歌師 朱楽菅江
江戸六歌仙の一人で儒学者、歌人であった内山賀邸に和歌を学びましたが、この賀邸門下に朱楽菅江をはじめ、大田南畝、唐衣橘洲、平秩東作などがいます。特に、菅江、南畝、橘洲はその後、狂歌界を牽引した狂歌三大家と称されています。
狂名の朱楽菅江というのはあけらかん、今でも使う「あっけらかん」から取られています。漢江と表記することもありました。俳号は貫立であり、そのため人が「貫公」と呼んでおり、それに朱楽を付けたと言われています。
妻も狂歌師で節松嫁々(ふしまつのかか)として知られ、狂歌グループ、朱楽連を結成して共に活躍しました。
「万載狂歌集」の出版
天明三年(1783年)に太田南畝は朱楽菅江と共撰という形で「万載狂歌集」を出版します。この狂歌集は江戸の狂歌ブームの火付け役になったと評価されています。
元々、狂歌三大家の一人、唐衣橘洲が「狂歌若葉集」の編纂を企画し、その際、太田南畝を編集から外しました。それに対抗する形で南畝が「万載狂歌集」の編纂を企図したという因縁があります。
両者の間には作風において復古的な橘洲と当世風の南畝という違いがありました。両狂歌集は天明三年の正月に同時に出版されましたが、軍配は「万載狂歌集」に上がり、その後、唐衣橘洲は一時、狂歌界から身を引きました。
こうした南畝と橘洲の対立に対して、平秩東作編集の「狂歌師細見」では朱楽菅江や元木網の仲介で和解したという記述が見られます。
南畝と橘洲が対立する中、三大家の一人であった菅江は中間的なポジションにいたことがわかります。
朱楽菅江の狂歌
・古今狂歌袋
立て見し 柱暦も 寝転んで 読めるばかりに 年は暮れにき
辞世の句
執着の 心や娑婆に 残るらん 吉野の桜 さらしなの月
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