平秩東作、読み方からして難しいですが、「へづつ とうさく」と読みます。戯作者、狂歌師、漢詩人、文人などとして知られている人物です。2025年のNHK大河ドラマ「べらぼう」では木村了が平秩東作役を演じています。
ここでは、平秩東作について説明します。
平秩 東作(へづつ とうさく)とは
NHK大河ドラマ「べらぼう」で平秩東作役を演じた俳優の木村了は演技の参考とするため、図書館などで多くの文献を読み勉強したところ、結局、平秩東作がどういう人物なのかわからなかったと述べています。
平秩東作の研究で知られる井上隆明は次のように述べています。
平秩東作は戯作的に生きた戯作者である
また、同時代に詠歌の兄弟子であった勘定組頭、篠木六左衛門は久しぶりに対面した平秩東作について次のように述べています。
風雅人の儀故、対面いたし候処、いつか山師に成候
風流の人だと思っていたのに、いつから山師になったんだ…と気分を害したようです。
友人であった平賀源内もそうですが、平秩東作もなかなか一言では言い表せない人物だったと言えます。
平秩東作の生い立ちと経歴
平秩東作というのは戯号であり、本名は立松懐之(かねゆき)と言います。字は子玉。他に東蒙山、嘉穂庵 、秩都紀南子などの号があります。享保十一年(1726年)に内藤新宿(現在の新宿区1~3丁目)で生まれました。
父親の立松太郎右衛門道佐は尾張出身の農民で、元々は津島神社に仕える社家の出のようです。父は家を異母弟に譲り、自身は16歳の時に江戸に出て、美濃高須三万石の松平摂津守義孝に仕えていました。そして、義孝の母、嶺松院の隠居に伴い、その小役人として享保八年までは四谷角筈で奉公しました。その後、馬借稲毛屋の株を手に入れて稲毛屋金右衛門として内藤新宿で事業を営むようになりました。しかし、享保二十年(1735年)、東作が10歳の時に亡くなります。
東作の母親は元々、松平摂津守に仕える侍女でしたが、夫亡き後、長男の東作と三人の妹を養いつつ店を守ります。その後、東作は煙草屋を営む稲毛屋を継ぎます。東作の両親は東作に書を読み、学問をすることを勧めました。
東作の家の筋向いは南条山人(川名林助)の生家であり、文人との交流がある環境にあり、東作自身も当時の代表的な文人である平賀源内や太田南畝と親交がありました。
天明狂歌と平秩東作
平秩東作は狂歌師としても知られています。3つ上には享保八年生まれの内山賀邸がいますが、賀邸とも親しく、この賀邸門下である太田南畝、唐衣橘洲、朱楽菅江らが一世を風靡した天明狂歌壇を作り上げていきます。
石川雅望「古今狂歌袋」
こうしたグループと接点があった東作は天明狂歌の草創期から狂歌師として活動していました。そうしたことから、狂歌が大ブームとなる中、東作は長老格の存在だったと言えます。
狂歌関連の書としては「狂歌師細見」や狂歌集である「狂歌百鬼夜狂」などの編纂をしています。
狂歌師細見
当時、吉原遊郭の案内書である「吉原細見」という冊子が年二回ほど出版されていました。平秩東作がこれを真似て作ったのが「狂歌師細見」です。天明三年(1783年)に蔦屋重三郎が版元となって出版されました。
古くから狂歌界に通じている東作ならではの著書と言えます。
「四方赤良と唐衣橘洲の対立」でも書いたように、この頃、狂歌界では四方赤良と唐衣橘洲が対立していましたが、朱楽菅江と元木網のとりなしにより和解したという以下のような記述があります。
牛込(四方赤良)と四ツ谷(唐衣橘洲)のわけ合も菅江さんは勿論木網さんの取持でさっぱりすみやした。これからみんな会へも一所に出て遊ぶのサ
「狂歌百鬼夜狂」
蔦屋重三郎が主宰して、怪異をお題とした狂歌集です。
この本の狂歌の冒頭では平秩東作が見越入道という題で以下の歌を詠んでいます。
さかさまに月も睨むと見ゆるかな野寺の松の見越入道
戯作者としての平秩東作
戯作者として知られる平秩東作は色々な作品を書いています。
水濃往方(みずのゆくえ) 明和元年(1764年) ※滑稽本
莘野茗談(しんやめいだん) ※随筆
お蔵法門事件ーカルト潜入と摘発
お蔵法門の一件は、平秩東作の理解を難しくしている印象があります。ですが、この事件は東作の行動を考える上で、是非とも考えておく必要があるでしょう。
お蔵法門、または秘事法門というのは浄土真宗の異端の教えであり、土蔵などで密かに行われていたものです。徳川幕府はキリシタンを厳しく取り締まっていたのは有名ですが、仏教でもこうした異端の信仰は厳しく取り締まられていたのです。
元々、立松家は浄土真宗東本願寺派でした。東作は明和二年(1765年)頃、隣の酒屋、三河屋の五郎吉に誘われ、このお蔵法門である隠し念仏に行くことになります。これは声色師善兵衛を中心とした異端の教えを説く集団でした。
翌明和三年に東作は知り合いの勘定奉行石谷清昌にこの件を密告しました。東作自身も詮議を受けたりしましたが、最終的には褒美として銀三枚を得ました。
東作の縁戚に山田儀兵衛という人がいて、この人が石谷清昌に仕えていたことで石谷清昌と面識がありました。清昌には清定という息子がいますが、東作は頼まれてこの清貞に学問を教えていたこともあります。
因みに、東作が学問を教えていた石谷清定の妻は西城小納戸頭取、新見正則の娘です。この新見正則の妻は老中にまでなった、あの田沼意次の妹でした。
また、石谷清定の養子、清豊(きよよし)は田沼意次の弟、田沼意誠(おきのぶ)の五男であり、石谷家は田沼家につながっており、それにつらなる平秩東作も田沼派に近い位置にありました。
平秩東作と事業 事業家?山師?
平秩東作は狂歌や戯作と言った文化的活動以外に事業家的な要素があった点が特色だと言えます。これが山師などと言われる理由でもあるのですが、この点に関して平賀源内と共通しています。というよりも、むしろ源内と連動して動いているような印象を受けます。
源内は安永8年(1779年)に殺傷事件を起こし、投獄された後、獄死しますが、遺体の引き取り手がない中、危険を承知で引き受けたのが平秩東作だったとされています。
一連の活動を見ていると、信頼している畏友、源内の遺体を引き取ったのもわかるような気がします。
また、大文字屋の誰袖を身請けしたことで知られる元勘定組頭の土山宗次郎が幕府から逃亡していた際、それを匿っていたのも平秩東作です。
義に篤いところがあったのでしょう。
炭焼き 伊豆天城山
安永二年(1773年)十月以降の時期に、東作は伊豆の天城山で炭焼きを行うようになります。この天城山入りには以前、平賀源内が芒硝(ぼうしょうー硫酸ナトリウム)を求めてこの付近に来たことがあったことから、源内の勧めがあった可能性が考えられています。
また、秩父の鉄山にいた源内に製錬用の炭を渡すことを考えていた可能性もあります。この天城での炭焼き事業は天明三年(1783年)になっても続いているようです。
材木屋
安永四年(1775年)、東作は14歳の長男、八右衛門に稲毛屋を譲り、自身は本所相生町四丁目に材木問屋を開きます。ここは材木屋が多い場所でもありました。
平賀源内が秩父中津川鉄山の開発に携わっていて、炭焼きしていたことから、秩父山の木炭や材木を扱うことも考えていたのではないかと思われます。
しかし、安永七年頃(1778年)、鉄砲州船松町に移ります。ここもマキや炭を扱う問屋が多かった場所です。しかし、次に述べるように、それ以外に理由があったようです。
蝦夷地方面への夢
この鉄砲州船松町には栖原屋、飛騨屋、新宮屋などの材木商や堺屋などの船屋がありましたが、彼らは蝦夷から樺太、ロシア方面への渡海、交易などを行っており、この地が北洋方面への窓口になっていました。
栖原屋は和歌山県有田郡湯浅町栖原の出身ですが、同じ出身地から江戸で書肆として成功している須原屋茂兵衛が出ています。
この須原屋一統の中で、須原屋市兵衛は革新的気質を持ち、平賀源内、平秩東作、太田南畝、森嶋中良などの本や海外に関する本の他、解体新書なども出版しています。
実は東作の長男、八右衛門が安永四年まで須原屋市兵衛のところに奉公に出ていました。
東作は蝦夷地の有力者とも交際していました。既に50歳を超えていましたが、北方に大きな興味と関心を以って、この鉄砲州に移ったと思われます。
その背景として、田沼派による蝦夷地開発事業がありました。この点で田沼派の人たちとつながっていたと言えます。
そして、天明三年(1783年)には密かに蝦夷地に渡って逗留し、「東遊記」を書きました。その2年後、天明五年(1785年)には幕府が本格的な蝦夷地探検を行いますが、それよりも先行していたわけです。
この東作の蝦夷行きは幕府から咎められることになったようです。しかし、この東遊記は天明五年の幕府の探検隊を派遣した勘定奉行の松本秀持に影響を与えました。
平秩東作の人物像
平秩東作と国益の思想
平秩東作の人生、それは狂歌、戯作はもちろん、家業だけではなく、実業にも果敢にチャレンジし、中年以降も北方への夢を持ちつつ行動し続けた人生だったと言えるでしょう。
平秩東作は平賀源内と共に、「山師」という呼ばれ方をしていますが、この「山師」について、源内は次のようなことを述べています。
国を思い、国益のために頑張れば、人はそれを山師だという。知恵のある者が知恵のない者をそしるときにはバカとか、タワケとか、アホとか、いろいろな言い方があるけど、知恵のない者が知恵のある者をそしるときはその言葉が使えないので、山師、山師という。
宇治光洋「平秩東作の畏友石谷備後守と「国益」の思想」では、平秩東作は平賀源内と同様、国益を重視する思想を持っていることを指摘しています。
平秩東作の態度は「常に経世済民を追求する近世知識人、強いていうなら儒者の眼差し」であるとし、「自らの眼と足で世界を見ようとする実学者、経世家の姿勢である」としています。
そして、「東作の『国益』という思想は、まさにこのような実学的経世家としての自己意識と視線の中から生まれた」と述べています。
平秩東作と田沼派の人物との交流は、この実学的経世家としての側面が重商主義経済官僚を通じた田沼政権とつながる思想的側面があったからだとしています。
平秩東作の最後
平秩東作は、寛政元年(1789年)、60代で病死しました。現代的にはまだまだ早い感じがしますが、当時としてはまずまず生きたといえるでしょう。
息子の一成(八右衛門)は東作の最後を次のように書き記しています。
病急ナルニノゾミテ猶談笑シテ終ヲトル
最後は笑って生を終えたようですね。
狂歌など町人を含む豊かな文化が興隆し、蝦夷地開発をはじめとする田沼派の経済政策が実行される中、それと共に生きた平秩東作は、田沼政権の幕引きと呼応するかのように人生を終えた感じがします。
辞世の句として、以下のような狂歌師らしい句を残しています。
南無阿弥陀 ぶつと出でたる 法名は これや最後の 屁づつ東作
参考文献
井上隆明「平秩東作と周辺」
宇治光洋「平秩東作の畏友石谷備後守と「国益」の思想」
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