「逆賊の幕臣」 朝比奈 昌広(あさひな まさひろ)

逆賊の幕臣

2027年のNHK大河「逆賊の幕臣」ではモグライダーの芝大輔が朝比奈昌広役を演じています。

旗本 朝比奈家

旗本、朝比奈昌広の先祖は元々、駿河の今川家、次いで甲斐の武田家に仕えていましたが、武田滅亡後、徳川の旗本になった朝比奈昌親の分家筋で駿河系の朝比奈氏とされています。従って徳川配下の旧武田家臣の一系統と言えます。

家禄は500俵で大番組の番士を務める家だったようです。旗本としては中程度のまずまずという家柄と言えそうです。

大番組は江戸幕府の軍制における組の一つで、他の書院番、小姓組、小十人、新番と共に五番方を構成していました。両番と言われる書院番と小姓組は格が高いとされ、将軍や世子に近侍するなど、ここから能力によって出世していくことが可能でしたが、大番組の番士の場合、そうしたコースに乗ることはできませんでした。

朝比奈昌広の父、朝比奈昌寿は小納戸役(役高500石)となりますが、小納戸役も将軍に近侍する役であることから、出世することが可能であり、昌寿もその一人と言えます。その後、昌寿は小納戸頭取(役高1500石)となります。

以後、田安家家老、西丸留守居、長崎奉行、小普請奉行、作事奉行など役高2000石の要職を歴任しています。官位は従五位下甲斐守を名乗っています。

朝比奈昌広の略歴

朝比奈昌広は文政十二12年(1829年)に朝比奈昌寿の長男として生まれました。幼名は八太郎、通称は甲太郎です。閑水と言う号もあります。

弘化三年(1845年)に父の後を追うように小納戸役として出仕することになり、嘉永二年(1849年)には小姓衆に抜擢されます。将軍家に近侍することで出世の道が開ける重要な役職です。

以下の嘉永四年(1851年)の「嘉永武鑑」を見ると小姓衆の一人として記載されています。この年には従五位下山城守を任じられることになります。その後は伊賀守や父と同じ甲斐守を名乗っています。

こうして出世への足掛かりを得た朝比奈昌広は安政五年(1858年)中奥小姓に転じた後、文久三年(1863年)には歩兵頭になります。前年には家督を相続しています。翌年、遠国奉行の首座を占める長崎奉行に任じられた後、慶応元年(1865年)に外国奉行を兼任します。

以降、慶応四年(1868年)に幕府が終焉を迎えるまで、勘定奉行、外国惣奉行並、 江戸南町奉行並など、次々と要職を歴任します。

薩長等の勢力に対し、どのように対応するかで幕府でも意見が分かれていました。強硬派の徹底抗戦論に対し、朝比奈昌広は慎重派だったと言えるでしょう。

幕末から明治維新へと時代が激動する中、当時、幕府の優秀な役人はこれらに対応するため、軍事、外交で活躍しますが、朝比奈昌広もそうした人物の一人だったと言えます。

明治以降

徳川宗家を継いだ16代の徳川家達とともに江戸を出て駿府府中藩に入ります。府中藩は後に静岡藩から静岡県になります。

その後、明治政府では大審院七等判事として奉職します。つまり、明治の世では裁判官として働いたということです。

こうして明治以降も活躍した朝比奈昌広は明治三八年(1905年)にその生涯を閉じます。

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