「逆賊の幕臣」 安積艮斎(あさか ごんさい)

逆賊の幕臣

2027年の大河ドラマ逆賊の幕臣では儒学者、安積艮斎を中村雅俊が演じています。

安積艮斎の略歴

朱子学者、安積艮斎は寛政三年(1791年)に生まれ、万延元年(1861年)に亡くなりました。従って活躍期間は江戸後期から幕末でした。

現在の福島県郡山市で、安積国造神社(あさかくにつこじんじゃ)の宮司、安藤親重の子として生まれました。名は重信、通称は祐助です。字は子順(思順)(しじゅん)で艮斎(ごんさい)が号です。別に見山楼という号もあります。

16歳のとき、名主である今泉家に婿養子として入りましたが、うまくいかず、17歳で学問を志して江戸に出ます。

そして、当時、儒学界を牽引していた佐藤一斎や林述斎の門人となります。

佐藤一斎(五十歳)像 渡辺崋山筆

師である佐藤一斎は昌平黌の儒官、つまり官学の総本山にいる朱子学者であると同時に、陽明学なども学びました。そのため「陽朱陰王」(表では朱子学を講じ、裏では陽明学を薦めている)とも言われました。

固定観念にとらわれず、学問的向上のために幅広く学ぶ態度は安積艮斎にも受け継がれます。また、艮斎誉癖と言う言葉があり、人を誉めることを心がけていたようで、現在の誉めて伸ばす教育を先取りしていたようです。

漢詩についても高く評価されています。

安積艮斎と小栗忠順

当時、多くの者が艮斎に学びました。その中には長州藩の攘夷派として知られる吉田松陰、高杉晋作、土佐の攘夷派、谷干城、同じく攘夷派の清河八郎、明治期に財界で名を成した岩崎弥太郎、会津藩士で藩主松平容保の側近であった秋月悌次郎、幕府の要職を務めた栗本鋤雲など、幕末、明治に活躍した人が多数含まれています。

小栗忠順も艮斎に学んだ一人ですが、それもそのはず。実は、艮斎の私塾「見山楼」は小栗家の屋敷内にありました。つまり、忠順にとってみれば自宅で塾で開かれていたわけです。

60歳で学問の最高峰、昌平黌の教授になる

天保十四年(1843年)には出身地の二本松藩に招かれ、1年半ほど藩校の敬学館教授になりますが、再び江戸に戻ります。

その後、嘉永三年(1850年)に幕府直轄の学問所である昌平黌の教授になります。以下の嘉永四年(1851年)に出された大成武鑑には御儒者衆として安積艮斎の名が記されています。

安積艮斎の著書

艮斎文略

天保三年(1832年)に『艮斎文略』と言う著書を出しますが、これにより艮斎の名が高まりました。

安積艮斎 艮斎文略訳注

遊豆紀勝

艮斎の「艮」には易で山と言う意味があり、また、私塾には「見山楼」という名をつけるなど、文人的な資質を持つ艮斎は自然を巡ることを楽しみました。天保五年(1835年)に江戸から伊豆に行った際の紀行文がこの「遊豆紀勝」です。

遊豆紀勝・東省続録 安積艮斎

洋外紀略

嘉永元年(1848年)に『洋外紀略』を出します。これはヨーロッパに関する歴史の叙述など、洋学者ではなく儒学者が書いた点で興味深い本です。これは国防的観点から鎖国維持という視点を持った書です。

洋外紀略 安積艮斎

安積艮斎と郡山市

安積艮斎の生まれた郡山市の安積国造神社の安積国造神社会館4階に「安積艮斎記念館」が設けられています。艮斎に関する貴重な資料が展示されています。

また、地元、郡山市には安積艮斎にあやかった「ごんさい豆」が売られています。安積艮斎が江戸に出るとき食べていた炒り豆に砂糖でもかかっていたら美味いだろうにと言ったことが由来だそうです。

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