2027年のNHK大河ドラマ「逆賊の幕臣」では岡部たかしが井伊直弼役を演じています。
井伊直弼とは
譜代筆頭の井伊家
井伊直弼の生まれた井伊家は徳川家康の時代、徳川四天王の一人として活躍した井伊直政以降、徳川の譜代大名として活躍しました。井伊直政の息子、直孝の時代には近江彦根藩30万石(城付米預かりの5万俵を含めると事実上、35万石)を領し、譜代大名としては別格の領地を有する家柄でした。
居城、彦根城は現在、国宝となっています。

井伊家は幕閣においても大老を出す家格の家柄でした。井伊家から老中は一人も出ていませんが、それは井伊家のほうが老中よりも格が高かったからです。井伊家では「井伊の赤備え」と呼ばれる甲冑などを赤で揃えた部隊編成が有名でした。
![]() |
十四男だった井伊直弼
後に彦根藩の第16代藩主となる井伊直弼は文化十二年(1815年)に14代藩主だった井伊直中の子として生まれました。母は側室の君田富(お富の方)です。直中には15人の息子と5人の娘がおり、直弼は十四男でした。幼名は鉄之介で、通称は鉄三郎です。
出生当時、父、直中は数えで50歳であり、既に家督を息子の井伊直亮(いい なおあき)に譲った隠居の身でした。大名家に生まれたとはいえ、普通に考えれば直弼に家督が回ってくることはありません。
父の直中が生きていた時は彦根藩の下屋敷である槻御殿(けやきごてん)で隠居した父と一緒に暮らしていました。因みに母は直弼が5歳の時に亡くなっています。
埋木舎(うもれぎのや)
日向延岡藩主になるチャンス
井伊家では当主の子どもは世継ぎ以外、次の3つの選択肢がありました。
- 他の大名家の養子となる
- 井伊家の有力家臣の養子となる
- 出家して僧侶となる
それ以外は捨扶持をもらって質素に暮らすしかありません。
直弼が17歳だった天保二年(1831年)に父が死ぬと異母弟の直恭(直中の十五男)とともに尾末町屋敷に移り、捨扶持300俵をもらって暮らすことになります。300俵というのは井伊家の中級家臣程度の家禄です。この尾末町屋敷も中級家臣の屋敷と同じ程度であり、藩主の一族の住居としては質素な屋敷でした。
直弼はこの尾末町屋敷を埋木舎(うもれぎのや)と名付けました。それは世間から見捨てられ、忘れられてしまったような自らの境遇を埋もれ木に例えたからです。
埋木舎

そうした中、天保五年(1834年)に藩主である兄、井伊直亮(なおあき)から呼び出され、弟の直恭(なおやす)とともに江戸へ向かいます。というのは日向の延岡藩7万石の内藤家の養子候補となったためです。
期待を持って江戸へ向かいましたが、選ばれたのは弟、直恭のほうでした。内藤家とは縁続きであり、当主、内藤政順(ないとう まさより)の妻は井伊家から嫁いだ充姫で、直弼兄弟から見ると姉に当たります。
その翌月、延岡藩主、内藤政順が亡くなり、弟の井伊直恭はそれを継いで、延岡藩主となり内藤政義と名乗ります。
埋木舎(うもれぎのや)での生活
翌天保六年(1835年)に直弼は彦根の埋木舎に戻ります。以後、弘化三年(1846)年、32歳になるまでこの埋木舎で暮らします。
こうした展望が開けない境遇の中、直弼は文武に励みます。ショートスリーパーだったのか、睡眠時間は4時間で、それ以外の時間を文武の精進に使います。
「文」では曹洞禅、儒学、洋学、国学など幅広く学んでいます。禅は清凉寺の仙英禅師に、国学は長野主膳から学びましたが、主膳は後に彦根藩士として登用され、直弼の側近となります。
また、茶道、和歌、能など風雅な趣味も究め、茶道においては宗鑑という名を持ち、「茶湯一会集」(ちゃのゆいちえしゅう)や「閑夜茶話」などの著作もあります。
![]() |
「武」に関しては柔術、武術、弓術のほか兵学なども学んでいます。居合術に関しては河西精八郎(かさいせいはちろう)から新心流を学び免許皆伝の腕前でしたが、そこからさらに新心新流という新しい流派を立ち上げています。
こうして15年間、埋木舎に住み続け、このまま埋もれてしまうかに思えた直弼に機会が巡ってきます。
16代彦根藩主
兄で15代藩主の直亮に子が無かったので、藩主の弟、直元(直中の十一男)が養嗣子となり兄を継ぐ予定でした。しかし、その直元が弘化三年(1846年)、38歳の時に病死してしまいます。
そのため直弼(直中の十四男)がそれに代わり養嗣子となり、江戸に呼ばれます。そして、世子となった直弼は従四位下侍従の位を授けられます。ただ、藩主の直亮との仲はあまりよくなかったようです。
その後、兄で15代藩主の直亮の死により、嘉永三年(1850年)に16代藩主の座に就きました。嘉永五年(1852年)には丹波亀山藩の松平信豪の娘、昌子が嫁いでいます。
黒船の来航
直弼が当主となってから3年目である嘉永六年(1853年)にペリーが浦賀に来航します。翌、嘉永七年(1854年)に再びやってきたペリーとの間に、日米和親条約を結びます。こうして、鎖国の時代は終わりを告げ、時代はいよいよ幕末に突入していきます。
![]() |
幕閣を構成する老中等は新しい事態の対応に追われますが、溜間詰であった井伊家の当主は幕閣で議論される重要事項の諮問を受ける立場でした。そうした中、幕府内でも攘夷と開国で意見が分かれます。
また、黒船来航後、間もなく12代将軍、徳川家慶が亡くなり、徳川家定が13代将軍になりましが、病弱で子供が見込めなかったことから、後継ぎの問題も生じました。この後継ぎ問題が上記の攘夷―開国の対立に絡んできます。
後継ぎ候補としては、家定のいとこに当たる紀州藩主の徳川慶福(よしとみ)を推す南紀派と、水戸藩主、徳川斉昭の子で、一橋家を継いだ一橋慶喜を推す一橋派の対立がありました。
南紀派は血筋を重視しており、井伊直弼や家定の生母、本寿院など大奥がその代表でした。一方、一橋慶喜は英明とされ、それを支持していたのは、父である水戸の徳川斉昭のほか、薩摩藩の島津斉彬などがその代表です。
大老就任
日米修好通商条約を巡って
アメリカと日米和親条約を結んだ後、初代日本総領事となったハリスはさらに通商条約の締結を求めます。いわゆる日米修好通商条約です。この調印もやむなしと判断した幕府は朝廷の許可を求めます。
しかし、攘夷派の公家はもちろん、孝明天皇自身もそれを拒否し、許可を得られませんでした。幕府がアメリカと朝廷の板挟みにあう中、井伊直弼はあくまで朝廷の許可を得ることにこだわります。
時の老中首座で開国派であった堀田正睦(まさよし)は事態打開のために、越前侯の松平春嶽に大老就任を希望しますが、安政五年(1858年)に南紀派の井伊直弼が大老に就任します。大老は臨時に設けられる役職で、老中よりも上位にありますが、どちらかというと名誉職的な地位だったとされています。しかし、井伊直弼の場合は実権を伴った地位でした。
朝廷の許可を得ることにこだわった直弼ですが、言葉の行き違いもあり、許可を得ることなく、アメリカとの間で日米修好通商条約が締結されることになりました。結果的に朝廷に無許可のまま調印してしまったわけです。
南紀派の勝利
事態を収拾させるため、徳川斉昭ら一橋派は一橋慶喜を将軍の世子にし、松平春嶽を大老とすることを求めます。しかし、それは拒否され、世子は徳川慶福に決まります。その際、徳川斉昭や尾張藩主、徳川慶勝は不時登城(登城日以外の日に登城すること)を犯すことになります。
これにより、一橋派の一橋慶喜をはじめ徳川斉昭らは隠居、謹慎など処罰を受けることになります。これが安政の大獄の始まりとされています。
その年、将軍家定が亡くなり、徳川慶福が14代将軍、徳川家茂となります。紀州派の完全勝利と言えます。
安勢の大獄と桜田門外の変
戊午の密勅(ぼごのみっちょく)
違勅問題はさらに尾を引き、安政五年(1858年)の戊午の密勅へとつながります。これは違勅問題に対する幕府の対応に怒った孝明天皇が水戸藩に対して、幕政改革を指示したものです。その背後には尊攘派の薩摩と水戸の動きがありました。
戊午の密勅で重要なのは幕府を通さずに朝廷から水戸藩に直接下され、水戸藩から諸藩へと知らせるようになっていた点です。つまり、幕府を無視した形で出されたものだったのです。
こうした幕府をないがしろにする事態に対し、この問題に関わったものを処罰するため、幕府側はついに強硬手段に出ます。それが安政の大獄です。
安政の大獄
この密勅を水戸藩の策謀と見なし、水戸藩家老の安島 帯刀(あじま たてわき)に切腹させるなど、多くの中心人物を厳しく処分しました。徳川斉昭も永蟄居(終身の蟄居処分)となります。こうした強硬措置を主導したのが井伊直弼です。
尊攘派の志士も捕らえて厳しく罰します。その中には梅田雲浜、吉田松陰、橋本左内など命を失った者もいます。
桜田門外の変
こうした井伊直弼らによる幕府を立て直すための厳しい処断が続く中、安政七年(1860年)に水戸藩の脱藩者らを中心に薩摩藩士1名を加えた集団が江戸城桜田門外で井伊直弼らの行列を襲います。いわゆる桜田門外の変です。
桜田門

これにより、直弼は志半ばで命を落とすことになります。安政の大獄もこれで終わりを告げます。皮肉なことに幕府を立て直すつもりだった大老直弼の暗殺は幕府の権威の失墜を招くことになります。以後、怒涛の勢いで明治維新へと進んでいくことになります。
その後、一橋派が幕府の実権を握ると直弼の行動が処分の対象となり、井伊家は10万石を削られました。また、彦根藩も藩情が変わり、直弼の側近だった長野主膳や宇津木景福は斬罪となりました。
井伊直弼の墓
自らの信念に従って行動し、道半ばで斃れた井伊直弼。その墓は東京都世田谷区の豪徳寺にあります。





コメント