大隈綾子とは
大隈綾子は明治の元勲の一人で、内閣総理大臣にもなった大隈重信の妻です。ここでは、大隈綾子について見ていきます。
旗本、三枝家
大隈綾子は嘉永三年(1850年)に家禄800石の旗本、三枝七四郎頼永の次女として生まれました。家禄が800石もあれば、旗本の中では中の上程度で比較的高い家禄と言えます。
兄、三枝竜之介守富
兄の三枝竜之介守富は弘化元年(1844年)生まれなので綾子より6つほど上になります。守富は大蔵省印刷局の写真技師として活動しており、古美術の撮影なども行っています。また、「株式界の老傑」と言われ、小倉鉄道や日本坩堝など様々な会社の取締役や監査役など重役を務めています。
小栗家との関係
大隈綾子の実母は家禄1000石の旗本、中川忠英(ただてる)の娘です。従って、中川忠英は綾子から見ると、母方の祖父に当たります。勘定奉行や大目付を歴任した有能な人物で、文政三傑の一人とされています。
その中川忠英の四男が小栗家に婿入りした小栗忠高、つまり、小栗上野介忠順の父です。つまり、綾子から見て、小栗忠高は叔父、小栗忠順は従兄ということになります。
大隈綾子と兄、三枝守富は幼い頃、親が亡くなり、叔父のいる小栗家で世話になっていたことがあるようです。
小栗忠順は非業の最期を遂げますが、その後、娘、小栗国子が生まれています。小栗家の女性は三野村利左衛門の世話になっていましたが、母、小栗道子が亡くなった後、大隈夫妻が国子を引き取っています。
大隈綾子と小栗国子との関係

大正二年に大隈重信夫妻が新潟の法音寺にある小栗忠高の墓参りをしています。
新潟にある小栗忠高の墓を訪れた大隈夫妻

資料:市島謙吉 著述 ほか『大隈侯一言一行』,早稲田大学出版部,大正11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/964395 (参照 2026-10-30)
大隈綾子の最初の結婚
綾子は大隈重信に嫁ぐ前に10代の時に一度結婚しています。仏師、彫刻家の高村光雲の師である高村東雲の媒酌により、大工の棟梁をしていた柏木家の養子、柏木貨一郎政矩に嫁いでいます。
柏木貨一郎は古美術の収集、鑑定を行う好古家として知られおり、様々な著作があります。
「高坏考」 柏木政矩

しかし、この結婚はうまくいかず、早々に別れることになります。このあたりの事情については、身近で見ていた高村光雲が詳細に書き記しています。
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大隈重信と再婚
明治二年(1869年)、20歳の時に大隈重信と再婚します。大隈重信も再婚で、前妻の美登との間に熊子という娘がいました。綾子は明治期において重きをなした大隈重信を50年以上にわたって支えました。

資料:ファイル:Ohkuma Ayako.jpg – Wikipedia
大隈綾子の評価
大隈綾子は賢妻として知られていました。また、宮武外骨は男勝りの女性の一人として綾子を挙げています。大隈重信の側近的存在であった犬養毅は男であれば重信以上だったと評価しています。
洋装嫌い
明治になると洋装も増え、女性も社交のために外に出ることが求められるようになります。綾子は洋装が好きではなく、鹿鳴館へも和装で行ったエピソードが知られています。

潔癖性
非常にきれい好きで、清潔さ、衛生観念の高さについては多くの指摘があります。邸内は塵一つない状態だったと言われています。


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