2027年のNHK大河ドラマ「逆賊の幕臣」では北村一輝が鳥居耀蔵役を演じています。
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鳥居耀蔵とは
学問の家、林家に生まれる
鳥居耀蔵は儒学者、林羅山を祖とする、林家の8代目となった林述斎の三男あるいは四男として寛政八年(1796年)に生まれました。諱は忠耀(ただてる)であり、耀蔵は通称です。
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父、林述斎は美濃岩村藩主だった松平乗薀の三男で、7代目で血統が途切れた林家を再興するために林家8代目となりました。林家は3代目以降、代々、大学頭(だいがくのかみ)を世襲する儒学者の中心となる家系でした。
林述斎は林家、中興の祖と呼ばれ、それまで1523石だった家禄も述斎の時に3000石まで引き上げられています。席次も奥詰小姓番頭次席に上がっています。こうした学問の家に生まれた鳥居耀蔵も学問をしっかりと学ぶことを期待されたはずです。
林家の9代目は述斎の長男、林檉宇(ていう)が継ぎ、弟だった鳥居耀蔵は文政三年(1820年)、25歳の時に旗本、鳥居家の婿養子となりました。
鳥居家を継ぐ
旗本、鳥居一学(成純)の長女、登与の婿となった鳥居耀蔵は鳥居家を継ぐことになります。鳥居家の家禄は2500石あり、旗本としては上級の部類でした。因みに小栗上野介忠順の小栗家も同じ2500石の旗本です。
この旗本鳥居家は関ケ原の戦いの前哨戦となった伏見城の戦いで討死にした鳥居元忠の三男、鳥居成次の系統の家で、鳥居家の分家筋に当たる家でした。鳥居家は二本竹に雀の鳥居笹の家紋で知られています。

中奥番から徒頭へ
中奥番
文政十年の文政武鑑を見ると、鳥居耀蔵が中奥御番衆として記載されています。文政六年(1823年 )、つまり養子に入って3年後ぐらいからこの任に就いていることがわかります。

中奥御番は役高300俵で番士の一種とされ、中奥小姓に従って、儀席に関与したりしますが、中奥小姓とともに、あまりやることがない閑な役職とされています。小姓や中奥小姓を希望する2000石クラスの旗本やその嫡男のうち、それに漏れた者がこの職に就くことが多かったようです。
やる気に満ちた鳥居耀蔵はここで鬱屈とした日々を送っていたのではないかと思われます。
御徒頭(おかちがしら)
さて、以下に載せているのは天保七年(1836年)に出された天保武鑑の御徒頭(おかちがしら)の項目です。御徒頭は徒歩組(かちぐみ)と呼ばれる歩兵部隊の隊長です。役高は1000石で布衣(6位相当)とされる役職です。
鳥居耀蔵は15番まであった組の内、11番組の頭であったことがわかります。「天保五午六月ヨリ」とあることから天保五年(1834年)からこの役に昇進していることが分かります。

目付就任と蛮社の獄
以下の天保八年(1837年)の大成武鑑を見ると、御徒頭だった耀蔵は天保七年(1836年)九月から目付に就任していることがわかります。

目付は監察を行う役高1000石の布衣役です。役高も御徒頭と同じ1000石で、布衣役である点も同じですが、この目付役は、出世の登竜門とされる役職でした。ここで鳥居耀蔵は前途に明るさを見出したはずです。
蛮社の獄
天保十年(1839年)にいわゆる「蛮社の獄」と呼ばれる蘭学者などに対する弾圧事件が起こります。これを主導したのが鳥居耀蔵です。スパイを送り込むなど陰湿な活動も行っています。
数年前には天保の大飢饉が起こり、餓死者や疫病による病死者も続出しました。これに起因する大塩平八郎の乱や生田万の乱なども発生し、社会は騒然とした雰囲気にありました。同時にモリソン号事件に象徴されるように異国船が頻繁に現れるようになっており、鎖国を続ける幕府体制に動揺が生じていました。
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こうした中、蘭学に興味が高まり、鎖国体制を批判的に見て、開国を願う人もいました。歴史的に見ると、この15年ほど後には、ペリーによるいわゆる黒船来航により開国が進み、30年も経たない間に大政奉還により幕府は崩壊し、時代は明治へと移り変わっていきます。
蘭学の興隆はこうした動きを先取りしていたとも言えますが、儒学を中心に鎖国体制を維持しようとする旧来の主張を堅持しようとする人々はこれら開明的な動きを苦々しく見ていました。儒学の総本山と言える林家に生まれ、保守的な考えを持つ鳥居耀蔵もその一人です。また、開明派を追い落とそうとする考えも持っていたようです。
その標的となったのが渡辺崋山や高野長英らです。渡辺崋山は三河国の田原藩の家老であり、絵師としても著名でした。田原藩で家老を務めた鷹見星皐や大儒と言われた佐藤一斎、松崎慊堂から儒学を学びました。こうした儒学を修めた者が蘭学に傾倒したり、陪臣であるのに幕政を批判的に論じることなどは旧来の考えでは許されないことでした。
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そのため、蛮社(南蛮の学問に興味を持つグループ)を標的とした弾圧が行われました。渡辺崋山は田原に蟄居となり、2年後に自刃して果てます。蘭学者であった高野長英は永牢、つまり終身刑となりました。後に牢に放火して脱獄しますが、6年ほど逃亡した後、捕縛され自刃します。
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その他にも無人島であった小笠原への渡航を計画していた町人グループなども多くは獄死しており、弾圧の激しさを物語っています。
南町奉行就任と妖怪、鳥居耀蔵
南町奉行、矢部定謙を失脚させる
天保十一年(1841年)に鳥居耀蔵はついに江戸南町奉行に就任し、天保十三年(1843年)には勘定奉行も兼任するようになります。
先任の南町奉行は矢部定謙(やべ さだのり)でしたが、老中の水野忠邦と対立し、罷免されます。その背景には矢部を陥れるための目付、鳥居耀蔵の策謀があったとされています。水野にその点を評価されて抜擢されたと考えられています。
矢部はその後、伊勢桑名藩に幽閉されることになり、食を絶って亡くなりました。
妖怪、鳥居耀蔵の誕生
以下の天保十四年(1833年)の大成武鑑を見ると、町奉行として鳥居耀蔵の名が記されています。「鳥居甲斐守忠耀」とあり、甲斐守に叙任されていることがわかります。そのため鳥居耀蔵の耀(よう)と甲斐守の甲斐(かい)を合わせて「妖怪」と呼ばれるようになりました。
これは蛮社の獄以降、密偵を使い、讒言で人を陥れるなど、人々が権謀術数に長けた耀蔵を嫌い、恐れたことを物語っています。また蝮(まむし)の耀蔵とも呼ばれました。

鳥居の横に記されている遠山左衛門尉景元は北町奉行で有名な「遠山の金さん」です。
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天保十二年から十四年(1841年 – 1843年)にかけて江戸幕府三大改革の一つ、天保の改革が水野忠邦により実施されます。鳥居が着任する以前は南町の矢部定謙と北町の遠山景元が共同で水野の政策に反対していました。
しかし、矢部が退けられ、鳥居が据えられると水野の意に沿って改革が実施されます。鳥居は水野の三羽烏の一人とされています。
上記の大成武鑑の遠山左衛門尉景元の上には以下のように「阿部遠江守」という紙が貼られています。改革を緩めるような姿勢を取り、町民に人気のあった遠山景元は北町奉行を退任させられ、代わって阿部遠江守が任じられています。
遠山は「大目付」へと移動させられています。大目付のほうが町奉行よりも格上で一見すると昇進のようですが、この頃の大目付は閑職でした。

保守的な政策
明治の新しい時代に向けて進んでいく中、天保の改革は昔に戻すというような反動的な性格を持っていました。保守的な思考を持つ鳥居はその手足となって様々な活動を実施していました。
例えば、綱紀粛正と贅沢、奢侈の禁止が言い渡され、徹底的に実施しましたが、それは庶民の楽しみを奪うことでもありました。
また、洋式軍備に反対するため、高島流砲術の創始者、高島秋帆を密貿易や謀反の疑いで長崎奉行と謀って逮捕、投獄するなど、相変わらず策謀を巡らせていました。
上知令の失敗
天保の改革の中で、老中水野忠邦は江戸と大阪を幕府で一元的に管理するため、一定の範囲の大名や旗本の領地を召し上げて、代替地を与える上知令を出しました。
しかし、これを多くの反対により挫折し、水野も辞任に追い込まれます。その際、水野の腹心だった鳥居耀蔵も反対派に寝返り、水野を裏切る形となります。
反対派の中心だった土井利位(どい としつら)が老中首座となり、鳥居は引き続き町奉行にとどまることになります。
鳥居耀蔵の失脚とその後
土井利位の失脚と水野忠邦の復帰
水野忠邦を裏切る形で生き残った鳥居でしたが、思いもかけない事態に陥ります。
天保十五年(1844年)に江戸城本丸で火災が発生し、その再建資金を大名から集めることになりましたが、土井利位がうまく集められず12代将軍、徳川家慶の信頼を失います。そのため、外国問題の紛糾を理由になんと水野忠邦が老中首座に復帰することになります。その後、土井も老中を辞任します。
水野を裏切った鳥居耀蔵はこうした事態に驚いたでしょうが、後の祭りです。同年のうちに耀蔵は職務怠慢、不正によりお役御免となります。しかし、これだけでは済みませんでした。
翌年の弘化二年(1845年)には全財産を没収された上、肥後人吉藩へのお預け処分、つまり軟禁状態となります。自業自得とは言えますが、自分を裏切った耀蔵に対する水野の怒りは激しかったことがわかります。
失脚後の鳥居耀蔵
その後、出羽岩崎藩を経由して、讃岐の丸亀藩に預けられ、明治維新後まで20年以上その状態に置かれます。幕府が滅び、明治へと向かう様子を政治の中心から離れ見ているだけだったわけです。
元々は林家の出身で学識もある耀蔵は丸亀では薬草を栽培したり、教えを乞うものにそれを授けたりなど、慕われていたようです。権力から離れたことが良かったのかもしれません。
ただ明治の世は批判的に見ていたようで、復古的な考えは変わらなかったようです。
明治になると東京、その後、駿府に移住しますが、明治五年(1872年)に東京に戻り、明治六年(1873年)にその生涯を閉じます。







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