2027年のNHK大河ドラマ「逆賊の幕臣」では瀧内公美が「たみ」として勝民子役を演じています。
勝民子とは
勝海舟は幕末に旗本として活躍し、江戸城無血開城を成し遂げたことで知られています。その海舟の妻が民子です。ここでは勝民子について見ていきます。
深川芸者から勝海舟の正妻へ
勝民子は文政四年(1821年)に薪炭商兼質屋を営んでいた砥目屋(とのめや)という商家に生まれました。その後、事情により民子は深川で芸者をしていたようです。その時、勝に見初められたと言われています。
弘化二年(1845年)に勝と結婚しますが、勝は文政六年生まれなので民子のほうが2つほど年上の姉さん女房でした。結婚当時、勝は23歳、民子は25歳でした。
深川芸者から旗本の奥方になったと聞けば、シンデレラストーリーのように思えますが、旗本と言っても当時の勝は極貧レベルの旗本でした。
二男二女に恵まれる
二人の間には翌年、長女の夢が、3年後に次女の孝子が生まれます。さらに三年後の嘉永五年(1852年)に長男の小鹿が生まれます。
小鹿が生まれた翌年に黒船が来航し、これを契機に勝の海防意見書が評価され、幕府内で役職を得ることになりますが、それまでは極貧状態が続いたと思われます。
小鹿と二つ違いで弟の四郎が生まれますが、四郎は13歳で亡くなってます。
以上のように民子と海舟の間には二男二女がいました。
長男:勝子鹿(ころく)
勝家の跡取りは長男の小鹿です。「小鹿」は「こじか」ではなく「ころく」と読みます。
小鹿は明治以降、海軍に入り少佐まで昇進しますが病弱だったことであまり活躍できませんでした。そして、39歳で母、民子よりも先に亡くなっています。
多くの妾と子ども
勝海舟の女癖の悪さは有名でした。多くの妾を持ち、妾との間にも5人の子供がいます。正妻だった民子は彼女たちを引き取り一緒に暮らしていました。大変な状況ですが、一家をまとめ、「おたみさま」と呼ばれて皆に慕われていたようです。
勝民子の墓
幕末から明治を駆け抜けた民子は明治三八年(1905年)にその生涯を閉じます。夫の海舟は6年前の明治三二年(1899年)にすでに亡くなっています。海舟の墓は本人の遺志で別荘「洗足軒」のあった場所に作られました。
一方、民子の墓は青山墓地にあったそうですが、戦後、海舟と同じ場所に改葬されたそうです。ただ、生前、民子は遺言として夫、海舟と一緒に葬ってくれるな、息子の小鹿と一緒に葬ってくれと述べていたそうです。自由奔放に振る舞う海舟に辟易していたのかもしれません。

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