「逆賊の幕臣」勝 海舟(かつ かいしゅう)

逆賊の幕臣

2027年のNHK大河ドラマ「逆賊の幕臣」では大沢たかおが勝海舟役を演じています。

1974年の大河ドラマはこの勝海舟が主役で、タイトルもズバリ「勝海舟」でした。主役は渡哲也が演じ、その後、松方弘樹に代わっています。

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勝海舟とは

勝家

高祖父:勝 命雅(のぶまさ)

勝家は元々、古くから徳川家に仕える古参の御家人でしたが、宝暦二年(1752年)、勝海舟の高祖父、勝命雅(のぶまさ)の時に旗本に取り立てられました。

命雅は鉄砲玉役同心でしたが、表火番、支配勘定を経て御目見え以上の旗本となり、役高200石、役料100俵の材木石奉行(ざいもくいしぶぎょう)に任じられました。宝暦三年の宝暦武鑑を見ると、「御材幷御石奉行」として「勝末之丞」として記載されています。

その後、役高400石、役料200俵の広敷番頭を務めています。勝海舟が旗本として活躍できる基盤はこの勝命雅の頑張りがあったからだと言えます。

父:勝 子吉(こきち)

勝海舟は父、旗本小普請組の勝小吉と母、信(のぶ)との間に生まれました。母の信は勝元良の娘で勝家に生まれました。一方、勝子吉は、旗本の男谷平蔵忠恕(おたに へいぞう ただひろ)の三男として生まれ、勝家に婿養子として入りました。勝家は旗本とはいえ、家禄はわずか41石でした。

勝子吉の祖父は農民出身で盲人でしたが、検校に上り詰めた米山検校です。鍼術を行うとともに盲人は金貸しが認められていたことから大名貸しなども行っていたようです。そのため盲人の上層部には富裕層がおり、米山検校もそうでした。

裕福だった末子の末子の忠恕に御家人だった男谷家の株を買い与え武士としました。江戸中期以降はこうした株の売買により武士になることも可能でした。男谷忠恕は支配勘定から勘定へと昇進し、旗本に列することになります。

勝子吉は不良旗本として知られ、奔放に生きた人物で「夢酔独言」という著書があります。

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幼年時代

勝海舟は文政六年(1823年)に父、子吉の実家である男谷家で生まれ、7歳までそこで過ごしました。幼名及び通称は麟太郎(りんたろう)で、名は義邦(よしくに)といい、海舟というのは号です。

時に文政十二年(1929年)、6歳の時に大きなチャンスが巡ってきます。後に12代将軍となる徳川家慶の五男、初之丞の遊び相手として江戸城に呼ばれたのです。その実現には男谷家の親類、阿茶の局の紹介がありました。

初之丞はその後、天保八年(1837年)に一橋家の養子となり、一橋家を継ぎ慶昌(よしまさ)と名乗りました。勝海舟は一橋慶昌の側近として上昇していく道が開けます。

しかし、翌年、慶昌は14歳の若さで亡くなってしまいました。これにより、側近として引き立てられる道が閉ざされてしまいます。

9歳の時、家に戻りますが、用人の多羅尾七郎三郎のところで本の稽古をつけてもらっていにいった道中で犬に襲われ睾丸を噛まれ生死の境を彷徨います。その後、幸いながら快方に向かいます。

文武に励む

その後、勝海舟は文武に励みます。武に関して、幕末に剣聖と言われた直心影流の男谷精一郎は親戚に当たり、そこで学び、その後、男谷精一郎の内弟子であった島田虎之助に学びます。そして直心影流の免許皆伝となります。

文に関しては若山勿堂から兵学を、永井青崖から蘭学を学んでいます。こうした兵学と蘭学の修学はその後、海舟の人生を切り開く糧となります。

黒船来航と長崎時代

嘉永六年(1853年)、ペリー率いる黒船の来航により、幕末期に突入します。西洋式兵学と蘭学の需要が高まる中、勝海舟の活躍できる舞台がお膳立てされます。

この時期、黒船来航による外交問題の噴出と、鎖国に基づいた攘夷派と開国派が複雑に対立する中、老中筆頭としてその調整に努めていたのが阿部正弘です。従来幕閣は譜代大名により構成され、外様大名や親藩大名は政治から遠ざけられていましたが、それらの人々も引き入れ、多くの知恵を使って問題に対処しようとしました。

そのため、人材登用を積極的に行いましたが、勝海舟もそこで頭角を現した一人だったと言えます。勝は氷解塾という蘭学塾を開いてましたが、海防意見書を出し、西洋式兵学校を設立することや、官板翻訳書の刊行の重要性を主張しました。これが目に留まり、目付兼海防掛だった大久保一翁の推薦で抜擢を受けます。

安政二年(1855年)に異国応接掛附蘭書翻訳御用となり、同年に長崎海軍伝習所に入り、長崎に行きます。結果的に5年ほど長崎で過ごすことになります。この期間は大老井伊直弼による安政の大獄の時期に当たり、そのため大久保一翁は一時失脚しますが、長崎にいた勝は無関係でした。

咸臨丸で渡米

万延元年(1860年)、幕府は日米修好通商条約の批准書を交換するため、アメリカへ使節団を送ります。それが、アメリカの軍艦で渡米した新見正興を正使、村垣範正を副使とする一行であり、小栗忠順も目付として同行しています。その際、護衛という名目で幕府所有のオランダの軍艦、咸臨丸がサンフランシスコに派遣されます。この咸臨丸には軍艦奉行、木村摂津守、軍艦操練所教授方頭取の勝海舟が乗船します。大まかな役割としては木村が提督、勝が艦長だったようです。

安政七年(1860年)の安政武鑑を見ると、軍艦奉行の木村摂津守の横に頭取として「勝麟太郎」の名が記されています。当時、勝の家禄が二百俵であることが分かります。

帰国後は蕃書調所頭取助に、翌年には講武所砲術師範に就いています。これにより海軍からは離れることになります。

軍艦奉行就任

文久二年(1862年)に一橋派が復権しますが、勝も軍艦操練所頭取に復帰し、その後、軍艦奉行並に就任します。

また、神戸に神戸海軍操練所を作るため動き出し、私塾「神戸海軍塾」も開きます。この塾の塾頭を務めたのが坂本龍馬です。その後、元治元年(1864年)、勝は軍艦奉行並から軍艦奉行に就任し、神戸海軍操練所が発足します。

しかし、政局は激動しており、公議政体論(諸侯と幕府が共同で政治を行う体制)を考えていた勝海舟の思惑通りには進みませんでした。こうした中、同年、軍艦奉行を罷免され、蟄居することになります。翌年、神戸海軍操練所も閉鎖されてしまいます。

この時期、薩摩の西郷隆盛とも面識を持ち、その後、勝が果たす大きな役割につながります。

大政奉還

慶応二年(1866年)に勝海舟は再び軍艦奉行に就任します。しかし、蟄居していた間に時代はどんどん進んでおり、長州征伐を巡る問題が幕府を大きく揺り動かしていました。そうした中、将軍家茂の死去と、徳川慶喜の15代将軍就任と続きます。

そして。慶応三年十月には大政奉還がなされます。慶応三年(1867年)の大成武鑑には勝海舟は役高2000石の軍艦奉行として掲載されています。

江戸無血開城

大政奉還は討幕派の機先を制することになったと思われましたが、結局、鳥羽伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が勃発します。幕府側は敗北し、将軍慶喜も舟に乗って江戸に戻ります。そうした中、勝海舟は幕府陸軍のトップ、陸軍総裁に任命されます。

新政府軍の東征が始まる中、徹底抗戦を主張する小栗忠順などの主戦派に対し、勝海舟は恭順派でした。将軍の慶喜自身も恭順・謹慎を決めます。こうした意向を受けて、新政府軍との話し合いで江戸無血開城を実現しました。

明治以降

明治以降も旧幕府側の代表格として、海軍卿や元老院議官、枢密顧問官などの要職を務めましたが、どれも短期間で辞任していたようです。また伯爵に任じられています。

徳川幕府の幕引きをした後は、旧幕府側の人々の救済的な活動も多く行っています。

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